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メトロで見た白百合 / 谷 克二

 

 ハンガリーの首都ブダペストは、世界で二番目に地下鉄が通ったことでも知られている。取材でかの地

 

を訪ねたとき、「その地下鉄に乗ってみましょうよ」とカメラマン氏が言い出した。そこで最初に開通した

 

メトロ1に、デアーク広場駅で乗りこんだ。

 

 黄色に塗られた車輛は、愛くるしさを感じるほど小さい。路線も地表からそれほど深い場所にはなく、

 

階段を数段降りるとすぐにプラットフォームだった。構内の壁には黄褐色のタイルが張られていて、明るく

 

絵画的。メトロが到着するときにはゆっくりとしたリズム、発車のときには早いリズムで柔らかい五音階の

 

メロディーがながれる。

 

 有名なセチェーニ温泉を見て帰る車中で、カメラマン氏が地下鉄のマップ片手に「デアーク広場駅で

 

うまく乗りかえれば、同じ切符でホテルまで帰れますよ」とセコイことを言い出した。

 

 「でも乗り換えがうまくいくかどうか…。それに、検札があるんじゃないの?」と私はためらった。しかしな

 

がら取材費は限られているから、安上がりになればそれにこしたことはない。それでも「ヤバイかも…」と、

 

私はためらっていた。

 

 「じゃ、だれかに尋ねてみます」カメラマン氏は若いだけあって、すぐ行動に移った。斜め前に座っている

 

東洋系の若い女性に向って、いきなり「ドゥ・ユー・スピーク・イングリッシュ?」とやってのけたのだ。彼女

 

は少し驚いたようだが「イエス」カメラマン氏はすかさず、「アー・ユー・ジャパニーズ?」

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 「はい、そうです」。澄んだ声で女性は答えた。

 

 私はカメラマン氏の勘によさに驚きながらも、彼女を仔細にながめてみた。実は乗りこんだとき、夏草の

 

しげみに咲く白百合のような彼女の姿が目をひいたのである。

 

 齢は二十歳(はたち)前後だろうか。輪郭のハッキリ

 

した顔立ちで、黒髪を美しくシニヨンに巻き、肌は絹

 

のようにきめ細かい。耳につけた赤いピアスが、白い

 

肌によく映えていた。

 

 カメラマン氏は「同じ切符で乗りかえがきくのか?」

 

とたずねたが、女性は戸惑ったように「私、パスを使

 

ってるのでわかりません」

 

 「じゃ、ハンガリーにお住まいですか?」と私がたず

 

ねた

 

 

 「そうです」

 

 「留学されてるのですか?」

 

 女性は笑顔になって「クラシックバレーの勉強をしてます」

 

 「そりゃ、大変だ!」と私が言ったのは、トレーニングのきびしさについて多少知識があったからだが、

 

女性はどう解釈をしたのか白い歯を見せて光の玉がはじけるように笑った。天真爛漫といおうか天衣無

 

縫といおうか、若さにあふれた実に感じのよい笑顔だった。

 

 「頑張ってください」と私が言おうとしたとき、メトロは駅にすべりこみドアが開いた。

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 「ア、私ここで降ります。取材旅行、どうかお気をつけて」彼女は素早い身のこなしで立ちあがると、

 

五音階のメロディーにのって軽々とプラットフォームの人波に消えていった。

 

 爽やかな風がふきぬけていったような思いだけが、私の胸にのこった。(了)

  
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