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ヴェルツブルク散策とレントゲン / 谷 克二

 

 マイン川の畔にあるホテルの部屋から、対岸の丘にたかだかとそびえるマリーエンベルクの要塞がよく

 

見えた。12世紀の半ばから18八世紀前半にかけて司教の居城だった要塞は、中世の厳めしさをよくと

 

どめてはいるが、城壁からマイン川に向かってくだる斜面がブドウ畑になっているので猛々しさがやわら

 

げられている。

 

 麓をマイン川が流れている。石造りの橋アルテ・マインブリュッケが水流をまたいで架かり、欄干の台座

 

から12人の聖人の像がたちあがっている。これらの構造物はすべてがバランスよく空間に配置されて

 

いるので、朝の澄んだ光の中で個々に見ても、天空があかがね色に染め上げられる夕焼けどきに全体

 

を大づかみに眺めてみても、まことに結構な風景となる。それはちょうど、泰西名画の大作の前をそぞろ

 

歩きながら、アングルを変えては作品のかもしだす異なった味わいを楽しむような趣(おもむき)があった。

 

 ホテルから河畔の遊歩道をアルテ・マインブリュッケに向かって歩いていくと、途中に18世紀に荷の

 

積み降ろしに用いられた大きなクレーンがある。ヴュルツブルクは地勢的にはマイン川の水運の要(かな

 

め)にあり、この利点は時代をつうじて町に富と繁栄をもたらした。マイン川は20世紀末にはドナウ川と

 

運河で繋がり、下流で合流するライン川とあわせて三川がロシアの黒海から北ヨーロッパの北海までぬ

 

ける長大な水のルートとなって、水運の重要性をさらにたかめている。

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 荷船がとおると波がたち、幾重にもかさなる。

 

それらは陽の光を反映してエナメルのようにかがや

 

きながら、岸辺に寄せてくる。夕べの斜光を浴びると

 

金色に染まる。そのようなひとときに身をゆだねて、

 

人々は石畳の遊歩道に長い影をひいてゆったりと

 

歩いている。体が不自由らしいご主人に老夫人が

 

寄り添っていたり、近所仲間らしい白髪頭のグルー

 

プが、孫たちの自慢話にうち興じたりしながら笑い

 

あったりしている。仲むつまじい光景は見ていて心がなごむ。ぶらぶら歩いていたら、前方から身なりの

 

よい、上品な顔立ちの老夫妻が歩いてきた。私の視線に気づいたのか、行き交うときに夫妻はおだやか

 

な視線を私に向けて、ご主人はゆっくりとソフト帽をとり、奥さんはこぼれるような微笑をうかべ、「今晩は。

 

いい宵ですね」と挨拶を送ってきた。その礼儀正しさに裏うちされた優雅なしぐさは、いかにも歴史ある街

 

の住人にふさわしく印象的だった。

 

 遊歩道はアルテ・マインブリュッケをくぐってさらに延びているが、私はその手前で旧市街に向かう階段

 

を上って市庁舎前の広場にでた。この広場にはフランコニアの像をいただく噴水がある。四頭のイルカが

 

四方に水を吐くという極めて躍動的で凝った装飾がほどこされていて、バロック様式そのものである。

 

バロックは、ヨーロッパが16世紀の宗教戦争、17世紀前半の30年戦争の大災禍をくぐりぬけたとき、

 

ルネサンスがテーマとした調和と均衡から、人間や自然のダイナミズムに目を向けた芸術様式で、

 

ヴュルツブルクはこの様式の建造物が多い。大聖堂の内部装飾、ノイミュンスター教会のファサード、

 

前月号で紹介したユリウス・シュピタール(養老病院)の建物などがそうだが、なににもましてバイエルン・

 

バロックの頂点にたつ司教宮殿レジデンツが他を圧倒する。

 

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 当時この街には、バルタザール・ノイマン(1687〜1753)という天才建築家がいた。絶対権力者の

 

司教公爵の手厚い庇護をうけてノイマンは存分に才能を発揮し、世紀の傑作を造りあげた。司教領主は

 

要塞からこの宮殿に移り、以後の政治をつかさどった。もし「数時間しかない。なにを見物したらよいか?

 

」とヴュルツブルクでたずねたら、「レジデンツ(司教宮殿)」という返事が打って返すようにもどってくるだ

 

ろう。豪壮なバロック様式の外観、息苦しさをおぼえるほど華美なロココ様式の内部装飾は、圧倒的に

 

見る者の眼を奪ってしまう。これほどまでに壮大華麗な宮殿を造りだせたのも、ノイマンが基本設計だけ

 

を受けもち、後は専門の芸術家にまかせてマネッジメントに徹したからだと思う。芸術家達は時代の風

 

を全身に受けながら、思うがままに腕をふるった。レジデンツを世界的に有名にした階段の間の大天井

 

画「四大陸」を描いたのは、ベネチアの画家ティエポロである。世界最大のフレスコ画で、総面積は

 

約600平方メートル。透明な明るい色を多用して明暗をはっきりさせ、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメ

 

リカを活写した(オーストラリアはこの時代にはまだ発見されていないので描かれていない)。余談ながら

 

吹き抜けの大天井は「設計ミス。崩落する」と指弾されたが、ノイマンは「絶対に大丈夫。砲撃をうけても

 

壊れない」と断言。その言葉は、約200年後の第二次世界大戦末期のヴュルツブルク空爆のとき、爆弾

 

の衝撃にも耐えて証明された。ついでながら、ノイマンは砲兵隊の大佐でもあった。

 

 レジデンツの地下には豪壮なワイン蔵があって、厖大な量のフランケンワインが貯蔵されている。ワイ

 

ンもまた、司教の街に富をもたらした産物である。

 

 ところで今回の訪問では、ヴュルツブルク大学にレントゲン研究室を訪ねるという目的があった。数年

 

前のことだが大学の建物がならぶ通りを車で走っていたら、建物の緑色の壁に「1895年W・C・レント

 

ゲンはこの場所で彼にちなんで名づけられた光線を発見した」と文字が白く書かれているのに気づいた。

 

レントゲン光線が物理学上の一大発見であり、それが医学などに飛躍的な貢献をしたものであることは

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知っていたが、それが「なぜX線とよばれるのか」「どのような

 

研究の結果、発見されたのか」そして「そもそもレントゲンとは、

 

どのような人物だったのか」などについてはまったく無知だった。

 

案内書を見ても「レントゲンが放射線を発見した研究室がある」

 

とだけしかない。好奇心を大いに刺激されたが、その後のヴュル

 

ツブルク訪問では時間がなく、研究室を訪れるチャンスがなかっ

 

た。そのことをあるとき、ドイツ歴史古都連盟の友人イボンヌ女

 

史に話すと、「じゃあ、アレンジしてあげるわ」とあっさり引き受け

 

てくれた。そういう次第で、私とカメラマン氏は滞在2日目の

 

午後、雨もよいの通りを歩いて大学に向かった。約束の時間は五時、構内に入ったが人気がなかった。

 

「担当者が案内をする」とプログラムにはあるが、かまわず研究室のある二階にあがった。壁に記念の盾

 

がかかっていて、外壁と同じ文言が書かれていた。その下の説明文に「発見の10年後の1905年に、

 

物理学者一同によって作成された」とある。担当者のヴァイガント氏がやってきて「この盾はもともと外壁

 

に飾られていたのです」と説明してから、二人を研究室に案内した。

 

 研究室はレントゲンが使用していたままに保存されている。仕事机の引出しは二重になっていて、秘密

 

の隠し引出しには重要な書類が保管されていたという。レントゲンの死後発見された。学者の性格を

 

垣間見る気がする。ヴァイガント氏は実験器具を一つずつ説明していくが、私のドイツ語の能力と貧弱な

 

物理の知識ではついていけず、結局そのときのメモをもとに後日調べることになった。発見にいたる経緯

 

を簡単に述べると、「ヴュルツブルク大学の教授で物理学研究所長だったレントゲンは、陰極線(放電現

 

象に見られる電子の流れ)を放電させる実験で高電圧を流したところ、近くにあった蛍光板が光りだした

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ので、2メートル以上離してみた。それでも蛍光板は光っている。さらに本や板を中間に置いても蛍光板

 

の光りは変わらず、アルミニウムやガラスではその影があらわれ、「手を入れたら薄い手の影の中に骨

 

が見えた」となる。陰極線は空気中では数センチしか進まない。だから明らかに陰極線とはちがう光線が

 

ながれていることになる。レントゲンは手の骨を透視したとき、悪夢を見ているのではないかと思ったそう

 

だが、明敏な研究者でもあったからただちにこれが新しい現象だと認識し、研究室に七週間こもって光線

 

の性格を調べあげた。こうして纏めあげられた論文が、有名な「放射線の一新種について」であり、ヴュ

 

ルツブルク物理医学界で発表されて一大センセーションを巻き起こした(1895年12月28日)。この論文

 

の中で、レントゲンは「他と区別するために、X線という名称をつかいたい」と述べている。ちなみに、

 

Xは数学で未知数を表す記号である。論文は内容の重要さからただちに印刷され、各物理学者に送られ

 

た。年が明けた1月5日ニュースは新聞で報道され、さらに次の日ロンドンから全世界に配信された。

 

反響はすさまじかった。そして1月23日、ヴュルツブルク物理医学会で記念講演がもたれ、講演後に

 

公開実験がおこなわれた。解剖学教授ケリカーがモデルになり、彼の手が撮影された。「そのときの写真

 

が、ほれ、このようにレントゲン協会のバッチに使われています」と、ヴァイガント氏は襟につけたバッチを

 

指し示した。ケリカー教授は「新しい放射線を、発見者にちなんでレントゲン線と命名したい」と提案し、

 

提案は満場の拍手のうちに承認された。しかしレントゲンはこの名称を好まず、生涯X線とよび続けたと

 

いう。

 

 1905年レントゲンは第一回ノーベル物理学賞をうけたが、賞金は全額ヴュルツブルク物理医学会に

 

寄付をしている。特許もとらなかった。「新発見はすべての分野で役立つべき」という考えにもとづく。人柄

 

をしのばせるエピソードである。ついでながら、工業学校の生徒だったとき、レントゲンの物理の成績は

 

「不可」だった。才能の評価は、才能を見抜くことができるだけの能力をもつ者が評価せねば、このように

 

滑稽なことになる。

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 ヴュルツブルクからはもう一人、日本人に馴染みの深い医学者が

 

でている。文政6年にオランダ医としてやってきたフォン・シーボルト

 

(1796〜1866)がその人で、最初の日本滞在は5年にわたり、長崎

 

では鳴滝の塾で幕末医学の英俊高野長英や高良斎などに西洋医学

 

を伝えた。丸山遊廓の遊女そのぎとの間には、ロマンスが生まれた。

 

二人の間に女子が生まれ、イネと名づけられ、日本最初の女医となっ

 

た。イネについては、吉村昭氏の名著「フォン・シーボルトの娘」に詳し

 

く描かれている。ヴュルツブルクは一九九五年にシーボルト博物館を開館した。滞在三日目に訪ねると、

 

理事長のクラインラングナーさんが笑顔で迎えてくれた。「長崎の鳴滝の記念館には及びませんが、徐々

 

に展示物も充実させています」と館内を案内しながら、クラインラングナーさんは明るく語った。(完)。

 

  
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