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春が待たれる / 北崎 理子

 昨日ひさしぶりに地下鉄にのった。

 

 私は外出をするとき、条件が許すかぎり通勤ラッシュを避けて、バスや電車に乗るのは午前九時以降と

 

している。この日も空いた電車のシルバーシートに腰掛け、吊り広告などを見るともなく見ていたら、

 

窓ガラスに貼られた広告が目についた。

 

 「おとなげない肌へ」とキャッチコピーが書かれて、赤ちゃんが

 

座っている写真が載っている。化粧水の広告である。

 

 この化粧水を使うとおとなげない肌、つまり赤ちゃんのような

 

肌になると言いたいらしい。だが、おとなげないは、大人げない

 

と書き、大人が幼稚っぽい言動をしたときなどに、非難めいて

 

つかわれる言葉ではないだろうか。

 

 自分でつかうときは「大人げないが、お祭りで綿アメを見ると

 

つい買ってしまう」などと、幾分の自嘲をこめてつかう。

 

 シルバーシートを公然と占めることのできる私は、どうも口うる

 

さくなってしまう。反省はしているが、こうした熟語の誤解釈は、

 

そのまま慣用語となってしまう恐れもある気がする。最近はこうした誤解釈を「慣用語としてこれでもいい」

 

などと、広辞苑あたりでも認めてしまう。

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 「当り一面火の海」は辺りが正しく、「手の裏を返すように」は、手の平をかえすように、が正しいと思うの

 

だが、広辞苑は認めている。

 

 中国に「俑(よう)をつくる」という古い言葉がある。古代中国では、人を葬るとき藁(わら)で作った人形を

 

墓に入れた。これがだんだん贅沢(ぜいたく)になり、周の末期になると本物そっくりの俑となった。

 

 孔子は「やがて生きた人間に殉死をさせるようになる」と危惧(きぐ)して、俑の発明者は罰が当たって

 

子孫が絶えるだろうとまで言った。

 

 「俑をつくる」は「小さいことだが、これが先例となって習慣となることもある。我々は俑をつくらぬように

 

気をつけよう」などと使う(古典語辞典、渡辺信一郎著)。こんなことをぼんやり考えながら電車に揺られて

 

いた。

 

 

 帰途、新宿からのったバスで、もうひとつおもしろいことにであった。バスの車内ではおなじみの、注意

 

や心得がアナウンスされていた。

 

 携帯電話の電源を切れ、揺れるので立っている人は吊り革につかまれ、年寄りや体の不自由な人には

 

席をゆずれ、降りる人はバスが停車してから席をたて、などなど。

 

 テープでの放送だとは思うが、それにしてもこの日のアナウンスはいつもより饒舌(じょうぜつ)なような

 

気がした。合間には次のバス・ストップの案内もあって、アナウンスはとぎれない。続いてまたアナウン

 

ス。「青梅街道は横断歩道以外で横断することはできません。横断の際は、近くの横断歩道をご利用くだ

 

さい」

 

 私は青梅街道をはしるこのバスをたびたび利用するので、この手のアナウンスはおなじみである。ぼん

 

やり聞いていると、おまけがついた。

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 「このあいだ、八〇歳を過ぎた女性が、

 

横断歩道以外のところを横断しようとして、

 

車にはねられました。骨盤骨折という重症を

 

おって、救急車で入院しました」

 

 〈私と同年代だ。お気の毒に。それにして

 

も今日は具体的なアナウンスだなあ…〉と

 

思っていたら、「お医者さんの話では、

 

もう治らないそうです」と続きがあった。

 

交通事故の恐ろしさを肝に銘じてほしい、

 

という気持からとは思うが、「もう治らないそ

 

うです」の箇所は運転手さんのアドリブ的

 

サービスではないだろうか。

 

 このアナウンスは深刻さを滑稽にかえた。なんだかおかしい。隣に腰掛けていた若い女性がクッと笑い

 

をかみ殺した。私も笑いたいのを我慢しながら、アナウンスに従い、バスが止まってから席をたってバス

 

を降り、近くの横断歩道で青梅街道を横断して、家路についた。(完)。

  
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