1

母の指輪 / 玉木 直美

 

 母の左手の薬指で、指輪がキラリと光った。

 

 「お母さんめずらしいものしてるじゃない? でも、おしゃれだわよ。どうした

 

の?」と私はたづねた。すると母は、「実はね、お父さんがこの前くじびきで

 

ダイヤモンドが当ったっていうの。〈その場で指輪にするのなら、台の代金は

 

千円でいい〉って言われたそうで、お金をわたしたらすぐ指輪に作ってくれた

 

そうよ。それを私にプレゼント。ダイヤが偽物だとはわかっていても、〈私のた

 

めにお父さんが〉って思うと嬉しいじゃないの。だから、はめてるの」。そう言う

 

と、母は左手をまっすぐ伸ばして薬指をすこし反らしてみせた。私には母が父の愛情を素直にうけて喜び

 

、心をはずませているさまが、春の陽のぬくもりのように伝わってきた。

 

 当時の母は五八歳だった。六人の子供を育て終え、父とともに房総半島の岬の突端にある絶景の地に

 

、釣り客、ダイバー、海水浴客相手の小さな食堂を営んでいた。今から三五年ほど前のことになる。

 

 私は東京の出版社に勤めていて二五歳、まさに真っただ中の青春を謳歌(おうか)していた。週末には

 

岬の家によく帰って、この店を手伝った。

 

 そんなある日、母の指輪に気がついたのだ。人好きで、社交的で、いつも笑顔でお店を切り盛りしてい

 

る母。寡黙な父は、母のかたわらで楽しそうに料理の手伝いをしたり、客に料理をはこんだり、テーブル

2

 

の後片づけをしたりしている。釣り客の魚拓をつくる作業、水槽の魚の世話、男ならではの大工仕事―

 

外壁の修理や机、椅子の修繕などは、父が一手にひきうけていた。父はかって会社を経営していたが、

 

ふと思い立って会社をたたみ、房総の海原が見える岬に居をうつして生活を一新した。まじめ一辺倒だっ

 

た父の、経営者としての固い顔だちも、会社を動かす日々の心労から解放されると、日ましにのびやか

 

になって、柔らかみを帯びた輪郭になっていった。

 

 父と母は、まことにいいコンビだった。二人とも海を眺めながら刻(とき)の流れに身をゆだねることを

 

悦びとし、客商売にはズブの素人だったが飾り気のまったくない人柄がお客にも気に入られ、いつの間に

 

か常連さんもふえていった。二人は、ともに九州生まれであり、母の故郷が熊本だったことから、食堂は

 

シーサイド阿蘇と名づけられていた。

 

 私がときたま帰ってみると、お馴染みのお客さんたちが父と母を囲んで、「いまや宴たけなわ」と盛り上

 

がっていることがよくあった。父は得意の詩吟を披露したり、熊本民謡のおてもやんを歌ったり、お客さん

 

と一緒になって陽気で明るい雰囲気を分かちあい、いつも楽しそうだった。商売で儲けることには無縁の

 

二人だったが、夫婦としての人生はいつでも順風満帆。父は毎晩欠かさぬ晩酌で上機嫌になると、「わし

 

は百歳まで生きるぞぉ!」と豪語するのが常だった。

 

 

 しかし人の一生は、ときとしてあっけないものだ。そんな父が二七年前、六九歳で人生の幕を閉じてしま

 

った。本人としては、さぞ無念に思う年齢だっただろう。母はその後八〇歳まで一人で店を守り、「おばさ

 

ん、おばさん」と客に慕われ、母もまた骨惜しみをせずに心をこめて客に応対した。

 

 そして月日は流れて時代は変わり、店も「音楽と珈琲の店、岬」へとさまがわりをしていった。「お客が

 

心からくつろぎ、心から楽しくなるような店に」という父の遺志は、姉や甥っ子たちに受け継がれ、店の灯

 

は点りつづけた。

3

 

 ところが平成二二年の一月の夜火災が発生して、折から吹きよせていた海からの烈風にあおられて、

 

岬の喫茶店も甥っ子が手作りでつくったライブができるステージも、瞬く間に灰燼(かいじん)に帰してしま

 

った。風光明媚といわれる岬も、台風や暴風のときには雨、風が荒れ狂い、どのような手段を講じても

 

自然の猛威の前にはなす術(すべ)がなくなってしまうことは、土地の者なら百も承知だったのだが、長年

 

住んでいたとはいえヨソモノだった私たちはその点が甘かった。

 

 「消防が駆けつけてくれたけど、火の回りが早く、火の勢いがあまりにすごかったので手のうちようがな

 

かったの…」と、次の日姉は涙声で私に話した。

 

 「不幸中の幸い」「危機一髪」という言葉があるが、いち早く煙の匂いで出火に気づいた甥っ子の素早い

 

行動が。皆の命を救った。家族五人がなんの怪我もなく脱出できたのはなによりだった。

 

 着の身着のまま裸足で風呂場から逃げだした姉。寝ていたところを甥っ子に揺り起こされて、かつぎだ

 

された九二歳の母。焔に巻かれていく恐怖は、それを経験した者でなければ計り知ることができないだろ

 

う。姉にとっては思い出が宝物のようにいっぱい詰まった「音楽と珈琲の店、岬」は、自分の分身といって

 

もいいものだった。その分身が、眼の前で音たてて炎上し轟然と崩壊をしていく。姉はその修羅の状況を

 

、胸張り裂ける思いで見つめていたことだろう。

 

 〈姉が半狂乱になって、思い出の品を救おうと炎の中にとびこまなくってよかった〉私は心からそう思っ

 

たくらいだ。気丈なはずの母は、無残な姿をさらす焼跡を茫然と見つめて座りこみ、やがて声をあげて

 

泣きくずれたそうである。

 

 

 母と姉の家族、合計五人が避難をしている知人の家に私が駆けつけたのは、火事のあった次の日の

 

昼前だった。私は真っ先に母に駆けより、手を握りしめていった。

4

 

 「お母さん、生きててよかったね。大丈夫よ。生きてさえいれば、なんでもできる。本当によかったねえ」

 

声がかすれ、一言一言を絞りだすように発しなければ声にならなかった。母は涙でうるんだ目で私を見て

 

、大きくうなずいた。高齢で足腰は弱っているものの、母の気性には火の国熊本の女らしい筋金が一本

 

とおっている。時間の経過とともに、気持ちを立て直していった。姉も自分をとりもどし、喫茶店の再建に

 

うごきはじめた。

 

 「春がくれば桃の花は咲き、水は高きから低きに落ちて流れ去っていく」と中国唐代の詩人が、自明の

 

理でうつりかわっていく自然のさまを詠(うた)っているが、母も姉も少しずつ自分のリズムと気力をとりか

 

えしていくようだった。とくに母は、高齢にもかかわらず感性が若々しい。文章を書く作業を一日も欠かさ

 

ない。その習慣を、火事で精神的に深い傷をおいまがらも失わなかった。

 

「長生きの秘訣は、くよくよしないこと」と常日頃いっている母。

 

やがて顔にも張りが出てきて、色艶のよさもよみがえってきた。

 

 

 私はいま遠い昔になったあの日、母が薬指に指輪をはめた

 

左手をのばして、嬉しそうにお茶目な表情をつくってみせたとき

 

のことを思い浮かべている。

 

 父が母を眺めて笑っている。指輪には本物のダイヤの輝きこそ

 

ないが、父から母への深い思いがこめられていて、澄んだ光を

 

放っている。いまの私なら、父が指輪にこめたその思いが、なにであったのか、掌(たなごころ)にかざす

 

ように読みとれる。父は母を心から愛し、尊敬をしていたのだ。そしてあの火事の夜、あの世の父はこの

 

世の母を、燃えさかる炎から守ってくれた。もちろん姉と姉の家族の命をも、である。

5

 

 耳もとで父の声が聞こえた。「直美は、よくそんな昔のことを覚えているなあ。あの指輪のダイヤはただ

 

のガラス玉だったし、そのことは父さんも母さんもちゃんとわかっていたよ。いまさらそんなふうに解釈され

 

ると、照れくさいよ」

 

 父はどこからか私を見ているのだろうか。

 

 「お父さん、そんなこと、どうでもいいのよ」と、私は父に言いかえした。「それより、お母さんはお父さん

 

の分も長生きしているのよ。もうすぐ百歳。凄いでしょう? これからも、お母さんをずっと見守っていてね

 

。これは約束。きっとね、約束よ」

 

 父は「まかしとけ」とでも言いたそうに両手を大きくひろげ、顔いっぱいの笑いで手を振りながら私の

 

脳裡から消えていった。

 

 数日後、私はおぼろにかわした父との対話を母に話してきかせた。母は指輪をはめて喜んでいたときと

 

比べると、すっかり細くなってしまった両の手で私の手をにぎりしめ、「そうねえ…、ほんとうに・・・お父さ

 

んが…」後は言葉にならなかった。

 

 母の指輪は遠い昔の思い出だ。それなのに指輪のことを思うと、私の脳裡には幸せに包まれていた父

 

と母の姿が、いまなおみずみずしく浮かびあがってくる。なぜだろう?

 

 それはおそらく、あの指輪に本物のダイヤのきらめきはなくとも、父と母が真摯に慎ましく生きて、深い

 

愛情で結ばれていたからに違いない。だからこそガラス玉の指輪が、本物のダイヤ以上に鮮烈な輝きを

 

はなつのだろう。あの指輪は二人の心と心がはなつ燦爛(さんらん)とした輝きだったのだと、いまの私は

 

思っている。(完)。

  
−Copyright (c) 2008-2012. Kashinokikai. All rights reserved.−