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傘の雪 / 片山 允代

 

 「愛の喜び」という題名の歌曲がある。解説によるとマルティーニ作曲、作詞家はフランスの詩人ジャン・

 

ピエール・クラリス(一七五五〜九四)となっている。フランス語でもイタリア語でもうたわれている。

 

日本語では次のように歌われる。

 

 

はかなきは愛の喜び、悲しみの永遠に残るを

 

君に捧げしわが愛は、背かれむなしく消えぬ、

 

はかなきは愛の喜び…

 

 

題名とメロディーの美しさによるものなのか、悲しみを歌ったこの曲

 

が、結婚式の披露宴でBGMになっていたり、ゲストがピアノ演奏した

 

りすることもある。かって招かれた披露宴で、私も実際に二度ばかり

 

この曲を耳にした。歌の意味を知っていた私は曲が演奏されている

 

間中、気分が落着かなかった。その曲が原因ではないだろうが、一組は数年をまたずして離婚してしまっ

 

た。

 

 〈人生ってそんなものですよ〉という意味合いを込めて、幸せの絶頂にいるカップルにこの曲を送るのも

 

一興かもしれない。我がこしかたをふり返ってみると、愛の喜びにかぎらず、過ぎた日の喜びや幸せは

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心の中にのこっていないことに気づく。年輪を重ね、心に隙間風が吹いたときなどふと思い起こして、

 

遠い昔の思い出をたぐりよせ、封印をした箱を開くと、アァ、あんな幸せもあったのだ、喜びもあったのだ、

 

と自分に言い聞かせることになることが多い。

 

 それに比べて過ぎた日の悲しみは、心の中にいつもどっしりと深く根を下ろし、ときには大きくふくらん

 

で、ちょっとでもつつけばたちまち鮮血が噴き出しそうになる。まさに〈悲しみの永遠にのこるを〉である。

 

 そして最近は、その上に老いという戸惑いがくわわった。街を歩いていて、ショーウインドーに映る自分

 

の姿が晩年の母そっくりになっているのに唖然となって立ちすくんだりしてしまう。自分がかんがえている

 

〈私〉と、現実の〈私〉とのギャップの大きさに思わずたじろいでしまうのだ。

 

 例えば衣類を買いにいって、若いときに似合っていたワイシャツや

 

Tシャツ、ジーンズなど躰に合わせてみると違和感が大きく、かえって

 

自分をみすぼらしく見せてしまうようで試着室からハンガーへもどして

 

しまい、なかなか一回でものすることはできない。

 

 「その年齢で、その体型で、そんなもの着たいと思うのが、そもそも

 

間違い。自分に対する認識をあらためなさい」と、若い友人は遠慮

 

会釈なく残酷な言葉を浴びせかけてくる。苦笑するほかはない。老化

 

は容赦なく容姿をかえ、体力気力を衰えさせ、病など諸々の重いもの

 

を私に押しつけてくる。

 

 エッセイの教室で〈我がものと思えばかるし、傘の雪〉という句が、作文の課題とされた。今まで

 

〈わがものと思えばかるし…〉と思っていたものは、なんだったのだろう。育ちゆくわが子、気に入った買い

 

物、欲深く、近所のお百姓さんからいっぱいもらってきた野菜の重さーまったく私ときたら…。

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 あらためてこの句に向かい合ってみると、傘の雪はそのような物理的な重さや現象ではなくて、ほろ

 

苦い後悔やあきらめといったような負の心を詠んでいるのではないか、と思われてきた。いままで気づか

 

なかった私が愚かなのか、あるいはこの私の解釈そのものが筋違いなものであって、素直に雪の情景と

 

してとらえればよいのかも知れないが、よく分からない。

 

 昔の人たちは軽い表現で人生の重さ、人の世の毀誉褒貶をサラリと詠み、後世の人々生きるホロ苦さ

 

をにのこしていったのかも…とも思う。どんどん降り積もってくる悲しみや老いという傘の雪を、「えい、

 

やっ!」と振り払って生きていかねばならないのも、なかなかシンドイことである。

 

 その力をいつまでもち続けられるかと考え込む日々でもある。(完)

  
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