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父よ、あなたは… / 犬塚 幸士

 

 八十近くなって身辺整理をしていると思わぬ回想の場面に出会って思いが深くなり、作業がはかどらな

 

くなってしまうことがある。すでに忘れてしまっていたことが数十年の時空をこえ、突然眼前によみがえっ

 

てくるからである。とくに家庭の中では存在感の薄かった父に関わることとなると、いまさらながら〈そうか

 

…、そんなこともあったのか…〉と父への感謝、尊敬、後悔などの複雑な心境におちいる。

 

 

「迷わず鶴岡にいけ。なにも心配はいらない。私も必ずあとから行く。皆元気で。父」

 

 

 五十年前に逝った母の雑記帳の間に大切そうに貼られた一枚

 

の古ぼけたメモが、戦後エネルギッシュに、生死を賭けた生還劇

 

を再三演じた父の、母と三人の子供たち、十四歳の中学生だった

 

私、十三歳だった妹、二歳の乳児だった妹へよせる父の思いを

 

語っている。

 

 私たち一家は、ソ連軍占領下の大連に暮らしていた。引き上げ

 

のどさくさの間に、母はこの手紙を大切にもち出したのだろう。

 

 昭和二一年(一八四六)、父は理由不明のままソ連軍に逮捕されて獄中にあり、進駐してきた中国八路

 

軍に身柄を移される途中、かっての勤務先であるビルの前を通ったときに、どう説得したのかオフィスに

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立ち寄り、監視のソ連兵の目を盗み、とっさに社用の100鉛筆で走り書きをしたわずか数行の手紙であ

 

る。父はこれを留守宅へ届けるよう、かっての部下に託したのだった。

 

 母は生きることに無能な女だった。引っ込み思案で、優柔不断で、優しいだけが取り柄の女だった。

 

父の給料が振り込まれなくなった昭和二十年八月から大連を去る昭和二十二年二月までの一年半、私

 

は勝気な妹と二人、中国人の略奪の目をかいくぐって売り食いでその日の糧をえてきたのである。帰国し

 

ても身のよるべない母には、どこへ帰ればよいのか心痛の日々だったにちがいない。そんな家族を案じ

 

ての、父の手紙だったのである。母も私たちも、父の故郷の鶴岡にはいったことがない。そこには大舅、

 

小姑が大勢いることなど、取りこし苦労性だった母にも思いは至らなかったようだ。とにかく、父から手紙

 

を受けとったときには安堵感が強かったようである。

 

 

 父の戦中から戦後にかけては、特高警察や憲兵隊の監視、四十一歳になってからの応召(おうしょう)、

 

昭和二十八年八月九日のソ連参戦と同時にはじまった日本軍の大敗走で北部満州すなわち現在の中

 

国東北部を何千キロにもわたって踏破(とうは)し、奇跡的に大連の自宅に舞いもどり、いつしかソ連軍

 

士官クラブの支配人のポストを得ていたのだから不思議な男である。しかし好事魔多しの例にもれず、

 

その後は同朋の密告によるソ連軍・中国保安隊による逮捕、尋問、釈放の連続だった。

 

 ただ不思議なことに、この父は言葉が得手でなかったにもかかわらず、どこにいっても好感をもって遇さ

 

れたようである。ひとつには徹底した楽天家で、八方破れ、天衣無縫がその処世訓であったからだろう。

 

 獄中にあっても朗々と謡を吟じ、「なにごとならん」と監視兵が集まってきて最初は制止をしていたが、

 

後には物見高い野次馬まで加わって、「コサック兵の合唱と混同していたのではないか」とは、後日の笑

 

い話である。

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 鶴岡に帰ってわかったことだが、九人兄弟姉妹の末っ子であった父は、父母が亡くなって長兄の代にな

 

っていた実家で、一つ違いの長兄の長男と双子のように兄嫁から可愛

 

がられて育ったのだということだった。この一つ違いの叔父と甥は二人

 

連れだって家出をしたこともあるという。

 

 名うての不良少年だったという父が旧制山形高校の入学試験にパス

 

したとき、兄嫁は大喜こびして、裸足のまま隣近所に「タツスケが高等学

 

校に入った!」とふれてまわったという伝説までがのこっている。父には

 

私たち一家が、温かく迎えられるという確信があったのだろう。はたせる

 

かな父の思いは的中していたようで、母も肩身のせまい思いはせずに

 

すんだようだ。南国育ちの母にとって北のはずれの鶴岡の町は第二の故郷となり、終焉もこの地で迎え

 

ることになった。

 

いまにして思えばあまりに遅きに失するが、私はあの父に「父よ、あなたは強かった…」と感謝の一言を

 

ささげたい。(完)。

 

  
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