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母の夏 / 加藤 幸代

 

 梅雨明けとともに猛暑となった七月の十二日朝九時に、わが家の電話が鳴った。受話器をとりあげると

 

相模原市の富士野温泉病院からだった。母が五年前から、その病院に入院している。「早朝に発熱され

 

ました。四十三度でしたが、手をつくしていまは三十九度に下がりました」と、聞き覚えのある看護師長の

 

声がつげた。「これから河内先生に診察していただきます。とりあえず、ご報告を」そう言って看護師長は

 

電話をきった。

 

 私の母は九十六歳。東京都内の病院で大腸癌の手術を受けたが、その後の一ヶ月の入院生活で歩行

 

困難となり、相模原市の温泉病院に転院した。それからの五年間は、私と母との関係は葛藤(かっとう)

 

の連続だった。「病人は、病(やまい)をたてにとってこれほどまで我がままになり、自己中心になるものな

 

のか」と私はたじろぎ、寝たきりの母はそのような私の感情のゆれや、つらい思いなどおかまいなしに、

 

自己主張を繰りかえした。だがそんな母も、このところ達観したのかめっきり落ち着いてきて、顔つきもと

 

みに美しく澄んできた。

 

 入院して三年ほどたったころ、母は「私、お父さんの顔を忘れたわ。あの世から迎えにきても、袖をすり

 

あっても、分らないわ。私、頭もだいぶおかしくなったのね」と口にするようになった。ところが今年の七月

 

初旬に見舞いにいったときは、「お父さん、このごろ枕もとのここに」とベッドの脇を指さしながら、「立って

 

いるような気がするの」

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 私はよく言われるように、「あの世から、父が母を迎え

 

にきたのだ」と思ってしまった。母にそのことを悟られま

 

いと努力したのだが、私の表情の変化を見て母にはな

 

にか感じるところがあったようだ。

 

 

 母が早朝に高熱を発した七月十二日、私は中央快

 

速、中央本線とドア・ツー・ドアでのりつぎ、二時間か

 

かる藤野温泉病院にでかけた。このときの心境は、

 

歌人の斉藤茂吉と同じだった。茂吉は危篤の母にあいにいく列車の中で、和歌を詠んだ。

 

 

  死にちかき 母の命をひと目見む 列車の中でただに急げる

 

 

小仏トンネルの中をゆっくり走る列車に、私はじれた。藤野温泉病院の母の病室についた私はつとめて

 

平静を装っていたが、たぶんひきつった顔をしていただろう。母は私を見て、「マァいいじゃん みんないく

 

道こわくない くるべきときが来たと思えば…」と、ケロリとして言ってのけた。

 

 私は驚いた。この歌は、だれが作ったのだろう? 五、七、五、七、七になっている。短歌などには、まっ

 

たく縁のない母が…。母自身で詠った歌とは思えない。同じ病室の人とはそれぞれ認知(にんち)や痴呆

 

(ちほう)の度合いがちがうので、共通の話題で話し合うこともできないはずだ。五、七、五、七、七の日本

 

人のDNAが突然めざめたのだろうか。それにしても、若い娘達がつかう「マァ、いいじゃん」などという

 

流行り言葉を、九十六歳の母がいったいどこで聞きおぼえたのだろうか。

 

 主治医の河内先生に呼ばれて、診察室にいくと、「嚥下性肺炎(えんかせいはいえん)を疑いましたが、

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肺炎の症状はみられませんでした。発熱以外、異常は認められません。この時期は梅雨が終わり、本格

 

的な夏にはいるときにあたります。私達には感じられなくとも、お年寄りには敏感に季節の変化が感じら

 

れるものです。だいじょうぶ、よくなりますよ」河内先生は診断結果を話してくださった。

 

 看護師長からは、次のような話しをきいた。「夜中に抗癌剤の点滴をしたら、お母さんは注入する針を

 

手の甲からぬいてしまわれた。〈これでは拘束をしなければ〉と言ったところ、突然〈拘束は人権侵害よ〉

 

と言われてしまいました。しっかりしていらっしゃいますね」

 

 娘の私ですら、ビックリ仰天してしまった。拘束は家族の了解を得なければならない、ということは知って

 

いたが、本人の了解までいる。ということまでは考えてなかった

 

 

  点滴をぬくと 拘束やむをえず 母のたまわく 人権侵害

 

 

 五、七、五、七、七のDNAで、また一首できた。「母のたまわく」という尊敬語をつかってしまったくらい、

 

母の凄さを感じた。寝たきりの状態になっても湿っぽくなく、明るい母に感服した。

 

 母の病室に河内先生が入ってきた。「ケイさん、すぐによくなりますよ」といって、先生は白髪(しらが)で

 

薄くなった母の頭を包むようにしてなでられた。母は大好きな河内先生のスキンシップを受けて、こんな

 

幸せはないという顔をしていた。

 

 いまは熱もひきつつあるが、今後こういうことは何回もおこるだろう。そうして母は、あの世への道をたど

 

っていくのだろう。穏やかで明るい姿を見せながら、日々の老衰から問わず語りに、娘の私に死とはどう

 

いうものなのかを教えているのだと思った。母の最期の授業である。

 

 

  遠からず 母の最期が見えるよう 心の準備なすとき来たる

  
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