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カサブランカの貴婦人/鈴木 弘

 

 その日は十一月に入ったというのに、太平洋高気圧が南風を送りこんで寒気団を北に押しやり、朝から

 

気持ちのよい風がながれていた。僕が近くの公園を散歩していると、一片の枯葉が漂うように円をえがき

 

ながら落ちてきた。僕は最初それを「一羽の蝶かな?」と思ったのだが、やがて枯葉と分かってすこし

 

驚いた。それほど枯葉は、形が美しく整っていたのだ。並木道の木々はすっかり葉を落として、竹箒(たけ

 

ぼうき)のようになった枝を青空に差し出している。だから宙を浮遊しながら落ちてきた枯葉は、南風がふ

 

ところに隠しもっていた一枚を僕の前においてくれたように思え、吉兆のようで嬉しかった。

 

 ゆっくりと歩きながら、僕は駅に向かった。駅ビルには行きつけの喫茶店がある。午後の一時を少々過

 

ぎていて客は少ない。店内は澄んだ空気に満たされている。だから僕はこの時間帯が好きなのだ。六つ

 

あるカウンター席のいちばん手前に座った。この席からだと、カウンターの奥におかれた薄緑色のガラス

 

壜(びん)に生けられている花がよく見える。コーヒーの味と香りを楽しみながら花を観賞していると、心が

 

豊かになっていく。

 

 冬に向かうにつれて、百合の花を見かけることが多くなった。その日も、赤紫と黄色の百合が生けられ

 

ていた。鮮やかな色合いは実に蠱惑的(こわくてき)だが、僕は二ヶ月ほど前に生けられていた白い百合

 

の花が忘れられない。花の名はカサブランカ。蕾(つぼみ)を次々に開花させて、しばし僕を楽しませてく

 

れた。その印象を、僕は手帳に書きのこしている。

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 カサブランカ 薄緑のガラス壜にいけられた一本

 

 青い茎から次々にくりだされる純白のユリ

 

 どれもが魅惑の光につつまれシベは赤い口紅

 

 こちらを向いて咲いている一つの花に問う あなたはどなたかと

 

 花は嫣然(えんぜん)とほほえむ

 

 その後カサブランカは花芯(かしん)の赤い花粉が客の服につくというので、花が開くたびごとに赤い

 

シベを切られた。それが僕をどれだけ落胆させたことか。

 

 花を見ると、僕はその花がどのような女性を連想させるのだろうかと考える。それが、僕の花の観賞の

 

仕方だ。花と女性を組にして記憶することで、僕の内面の美は豊かなものになる。連想する女性は比較

 

的身近な女性で、スクリーンを飾る女優とむすびつけることはまれにしかない。野菊には野菊が好きだっ

 

た母を、芙蓉の花にはある夏の日に会った初恋の女(ひと)を。カサブランカにふさわしいのは、どのよう

 

な女性だろう? と僕は考える。思い浮かばない。カサブランカという名は、

 

映画「カサブランカ」の主演女優に仮託したものであろうか。よく分からな

 

いが、僕はそのイメージに安易に寄り添うことを避けた。純白は美しい。

 

しかし同時に汚れやすい。僕は心の中で花にふさわしい貴婦人を探し

 

もとめた。

 

 駅ビルに隣接するビルの二階には図書館がある。コーヒーを飲んで

 

から一階の喫茶店を出て二階に上がり、ブリッジを渡って図書館にいく

 

のが僕の習慣になっている。ブリッジの出口近くに化粧品の売り場が

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あって、そこはいつも白色光に満ちている。まぶしいので、僕はいつも急いで通過する。ところがその日

 

売り場の通路を中ほどまで来たとき、僕は足をとめた。ルージュ売り場に飾られた、憂いをおびた若い

 

女性の顔写真にひきつけられたからだった。化粧品売り場では、外国人のモデルの顔写真がよく用いら

 

れる。どれも「私はこのメイクで勝負する」といった挑戦的なツラガマエのものが多く、僕はとても好きには

 

なれない。ところがその顔写真の女性は、ごく自然な表情で撮られていた。最初、幅広い白い帽子を傾け

 

てかぶった女性の写真かと思ったのだが、よく見るとそれは帽子のつばではなく、光をさえぎるようにか

 

ざしている華奢(きゃしゃ)な手であることに気づいた。薄茶のぼかしで縁どられた右眼はやや伏し目で、

 

左の眼にはシャドーがかかり、瞳はブルーである。白い鼻筋の下の可愛らしい唇は色鮮やかなルージュ

 

で、すこしひらいていた。メイクにうとい僕は、このモデルはどのようなひとかと白衣の店員にたずねた。

 

すると彼女は僕の問いには答えず、写真のモデルが美しく見えるのは上手なメイクのせいだと言った。

 

そして、世の女性をモデルのような女性にするために私は

 

ここにいるとでも言いたげに、自分がつけている口紅もモデ

 

ルの女性と同じものであり、この冬売り出されたパーフェク

 

トルージュ・ドラゴンレッドだと続けた。「見たままの色がクリ

 

アに発色し、唇の荒れやがさつきを防ぎ、一日中しっとり

 

保つ」というのが、その製品のうたい文句である。彼女はそ

 

の外にも、メイクや口紅の種類について、いろいろ説明をしてくれた。客でもない僕に、彼女が丁寧(てい

 

ねい)に対応してくれたことが嬉しかった。ひょっとすると、彼女はモデルと姉妹ではないのかと思ったほ

 

ど心がはずんだ。

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 数日後、友人から「睡眠効果があるから」とラベンダーの香が送られてきた。「寝つきが

 

悪い」とこぼした僕の言葉を、友人は覚えていてくれたのである。香は線香のように棒状

 

になっている。その晩僕は神妙な気持ちで枕辺に小皿を置き、香を折って支えに寄せか

 

け、マッチで火をつけた。かぐわしい香りがたちのぼり、床につくとすぐに眠りに落ちた。

 

 夢を見た。僕はパリの郊外の若葉が美しいマロニエの並木道を歩いている。すると

 

向こうから、若いご婦人が近づいてくる。近よると、彼女が化粧品の売り場に飾ってあっ

 

た顔写真のモデルの女性であることが分かった。僕は会釈をしてガイドブックを彼女に

 

示し、美術館へいく道を片言のフランス語でたずねる。ところが彼女は、流暢な日本語で応じた。母親は

 

日本人で、父親がフランス人だという。私もその方向にいきますからと言い、彼女はためらいがちに「あな

 

たには、以前にもお会いしましたね」と言った。僕は驚いて、まじまじと彼女を見た。なんと、彼女は化粧品

 

売り場にいた女性ではないか。あのときは白衣を着て髪も短かったので、私服の彼女の姿は想像できな

 

かった。僕は嬉しくなって右手をさしだすと、彼女も白い華奢な手をのばした。「なんだ。あなたがモデル

 

の女(ひと)でしたか。あなたも人が悪い」と僕は笑って、彼女の手をとった。やや冷たい手である。彼女は

 

ただほほ笑みながら、ブルーの瞳を向けている。

 

 記念に写真を撮って別れようとしたが、とてもそんな気持ちにはなれない。僕は思い切って一歩前に踏

 

み出し、腕をひろげて彼女をそうっと抱いた。するとそれが自然なことでもあるかのように、彼女は身をよ

 

せかけてきて、白い面(おもて)を僕に向けた。眼は閉じられ、赤いバラのような唇がさしだされている。

 

僕は自分の唇をそれに重ねた。しっとりとした触感と共に、全身に電気が走った。僕は陶酔感に包まれ、

 

体が浮き上がるのを感じた。気がつくと僕は高く舞い上がり、南風にのって浮遊していた。ふと下を見ると

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僕の体(からだ)はぬけ落ちて、朝の枯葉のようにマロニエの

 

並木の上にゆっくりと落ちていく。僕の魂は彼女の魂と一緒に

 

なりながら、ラベンダーの香りのする南風にのって漂っていく。

 

 

 夜が明けて朝がきた。枕もとの小皿を見ると、灰が夢の名残

 

だけを留めていた。(了)。

  
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