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老いも又楽し/犬塚 幸士

 

 なにを食べても、昔のように「うまいな」と思うことがなくなった。

 

 家の中でも、レストランでも、それも少し高級なレストランで食事をしても、有名な懐石料理をご馳走に

 

なっても、「うまい!」という味覚の感動を味わうことはほとんどなくなった。

 

 女房や友人達から「なにを食べたい?」と尋ねられても、返事をすることができない。「なにを食べさせ

 

ても反応がないんだから」と、わが女房は不平タラタラである。いまさら美味くもないものを「うまい!」と

 

いって、女房を喜ばせるには歳をとりすぎてしまった。

 

 

 七十歳をこえたころから、身体の各部に異常をきたしてきた。最近では呼吸器、消化器が異常。筋肉や

 

関節までもが悲鳴を上げるようになった。自慢の視力1.2もさっぱりになって、町で知人とすれ違うときで

 

も、まさにその瞬間まで「どこのだれ」やら分からずに、声をかけられて「アァ、あなたでしたか…」とあわ

 

てる始末である。女房や娘には、「さっきから、なんども呼んでるのにどうしたの? 聞こえないの?」と、

 

しばしば怒られる。

 

 

 去年の秋、古い山仲間に誘われて、栃木県の古賀志山の初級ゲレンデで久しぶりに岩登りをしたのだ

 

が、三メートルほどスリップして宙吊りになり、擦過傷を負った。そのうえ無様(ぶざま)にも、ヘルメットを

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飛ばすという醜態(しゅうたい)まで演じた。少し頭を打ったので、次の日に脳外科で精密検査を受けた

 

が、頭蓋骨にも脳内にも異常はないという診断だった。そこでついでに「痴呆(ちほう)の可能性は?」と

 

診てもらったが、これまた「異常はない」ということだった。

 

 しかしながら、最近はもの忘れがひどくなった。出しぬけに「電話番号は?」「番地は?」「携帯電話の番

 

号は?」と矢継ぎばやに質問されると、怪しくもこんがらがり、悩ましくもシドロモドロになってしまう。

 

「きょうは何年、何月、何日?何曜日?」とタタミこまれるともうダメで、あわてて新聞の日付を見なければ

 

ならない。まったく恥ずかしき次第である。

 

 若いころから鍛えていたはずの足腰も、このごろはエスカレーターに頼ってばかり。駅の階段を走って

 

上ったりすれば、息切れがひどくて、たちまちダウンしてしまう。

 

また、五十肩か七十肩か知らないが、右肩の間接付近に常に鈍痛を感じる。整形外科で診察してもらい、

 

治療を受けたが、一時的には治ったものの、結局にぶい痛みはもどってきて、なんの効果もなかった。

 

 「鍼(はり)でも灸(きゅう)でも、なんでもやってくれ」と頼んだのだが、なにをやっても効果はない。結局

 

「加齢による身体障害で、仕方のないことではないか」と、いまではあきらめている。つまり、耐久力も

 

平衡感覚も、記憶力も、視覚や聴覚も、咀嚼力(そしゃくりょく)や消化力、嗜好(しこう)もすべて狂ってき

 

たとしか思えないのだ。しかし、それだけではない。頭の中も、どうも歯車がおかしくなっているようだ。

 

詩人や哲学者の言うことがさっぱり理解できなくなっている。

 

 こんなことを書いていると、すべての面で絶望的な状態にいるように思われるかもしれないが、「だから

 

…」といって人間ドックに入ったこともないし、健康診断すらも六十歳で定年をむかえて以来、一度も受け

 

たことがない。もちろん私の生来の横着な性格が原因ではあるのだが、どうせそんな検査を受けたところ

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で、この複雑な有機体のすべてを発見し、治療をすることなど不可能だと思っている。

 

 しかし絶望して自暴自棄に陥(おちい)っているかというと、そんなことはまったくない。「もう死んでもお

 

かしくない歳になったのだ」と思うだけである。

 

 毎日が楽しいし、好きなことをやっていれば東奔西走(とうほんさ

 

いそう)して疲労困憊(ひろうこんぱい)しても、後悔することはない。

 

人間「老いとはこんなものだ」と思えば、思い患(わずら)う気にもな

 

れないものだと達観(たっかん)に似た境地にある。

 

 食べたくないものは、食べない。

 

 好意には感謝するが、やりたくないことはやらない。

 

 

 

 認知症という新しい言葉とは別に、昔は耄碌(もうろく)とか老碌(ろうろく)という言葉があった。私もきっ

 

と、その域に達したということだろう。全能の神は、人間が決して逃れることができない死への恐怖をや

 

わらげるため、朦朧(もうろう)とした状態の中で死を迎えるほうが幸せなのだ、とやさしい配慮をしてくれ

 

たのではないか。それが、いわゆるボケなのだろう。

 

 考えてみると、子供達はみな成長し、私も一家の大黒柱としての存在意義がなくなってしまった。きょう

 

この頃は、浮世のしがらみもなく、思いどおりの時間を過ごすことができる。この現在こそが、私の人生の

 

中でもっとも自由で、最も楽しい誇らしい時間だと思うのだが、いかがだろうか?

 

 彼岸に旅立つときがきたら、静かに、黙って目をつむるだけだと思っている。

 

 そう、例えば野生のシカのように…。(了)。

  
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