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わが友、さやか/住吉屋クララ

 

 私がさやかと知り合って友達になったのは、昭和十九年(1944)のことだった。そのころ、日本はアメリ

 

カと太平洋で激しい戦いをくりひろげていた。太平洋戦争(1941〜45)である。長期化した戦争を続け

 

るために、日本政府は「国民皆兵」「国民皆勤」の政策をうちだした。つまり老人、子供、主婦、身体に障

 

害のある者などを除いては、十五歳以上の男子は軍隊へ送られ、大学生は「学徒出陣」の美名で兵士

 

として戦場に送られた。女子は中学生、高校生でさえも学業を中断させられ、勤労奉仕と称して職場で

 

働くように定められた。こうした一連の政策のひとつとして、外務省は諸外国から日本に引き上げてきた

 

外交官の子女たち、を臨時の要員として採用することにした。そのとき、さやかと私は同じ課に配属され

 

たのである。さやかは私より二つ年下だった。

 

 採用にあたって、私たちは簡単な試験を受けた。そのときの問題に、ときの外務大臣「重光葵(しげみ

 

つ・まもる)」の名前にフリガナをつける、というのがあった。「シゲミツ・ワサビって書いた人がいたんです

 

って」。彼女がそう言ったとき、私には冗談としか思えなかった。いまと違って、当時の大臣職にはズシリ

 

とした重みがあり、大臣に対しては並々ならぬ敬意が払われていたからだ。それをワサビとは・・・。

 

 さやかが、それを書いたのは自分だと白状したとき私は笑い出し、さやかと二人で笑い転げてしまった。

 

 

 さやかは領事の娘だった。幼いころはエジプトにいたそうだが、その後は十五歳で帰国するまでフラン

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スで育った。帰国してから女学校に編入され、トップクラスの成績で卒業した。彼女は普通に日本語を話

 

し、読み書きも十分にできた。しかし医学的な専門用語や特殊な言葉になると、フランス語のほうが無理

 

なく出てくるようだった。 さやかが他の友達と違うところは、フランス時代の話をしてくれることだった。「フ

 

ランス南部の港町マルセイユではね、夜の女は裸の上にジカにファーコートを羽織って街に出るの。向こ

 

うから目星をつけた男が近づいてくると、一瞬だけパッとコートを開いて見せるのよ」「まさか・・・」。私は

 

仰天した。当時の日本では、欧米の文化はすべて閉め出されていた。またセックスに関する描写は、たと

 

えそれが文学上の表現であっても禁止されていた。若い娘たちの間では、話題に上がることもなかった。

 

 「本当よ」さやかは私の心を見ぬいたように言葉を続けた。「でも、ちっともいやらしくないの。とてもきれ

 

いなのよ」。私は目から鱗(うろこ)が落ちたような気がした。なんというカルチャーの相違だろうか。何の

 

偏見も持たないで、美しいものを美しいと捉(と)らえる情操の豊かさを思い知らされた。

 

 

 さやかはまた、こんな話もしてくれた。

 

 「スペインの田舎のほうでね、カトリックのお祭りがあるでしょ。神父

 

さまが行列を作って練り歩くとき、まだ子供のできない若い主婦たちは

 

てんでに行列に駆けよって、神父さまの祭服の中に手を入れて、男性

 

のシンボルをつかむの。そして、どうぞ子供をお授けくださいってお祈

 

りするのよ」。さやかはクスクス笑った。「そんな話は、とても信じられ

 

ない。いつもの小話でしょ?」と私は言った。「本当の話よ。ポルトガル

 

でもそうだけど、あの辺りの人はまだ民度が低く、だから大らかなのよ」

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「それで神父様は?」「神父様はそのままよ。粛々と歩むだけ」。この外にも、さやかは折に触れてフランス

 

の小話や艶笑談をして私を笑わせた。それらは、みな素朴でほのぼのとしたユーモアにあふれるものば

 

かりだった。いやらしいとか、下品なものは一つもなかった。いまではすっかり忘れてしまい、思い出すこと

 

ができない。残念に思っている。

 

 戦争が終わり、お互い結婚してからは生活と育児に追われ、また私の夫の転勤もあってさやかと会う

 

機会も少なくなっていった。しかし私は外務省のとき知り合った友人たちから、さやかのニュースを伝え

 

聞くことができた。「さやかは一男一女をもうけて、幸せな結婚生活を送っている」ということだった。終戦

 

後の生活は苦しく、生活に必要な日用品でさえ手に入れることがむずかしかったので、私たちは外務省

 

の仲間たちとグループを作り、子供服やオムツなどを使い回していたのである。グループは一年か二年

 

に一度、東京にいるものだけで会って食事を共にしたり、それぞれの家に遊びに行ったりしていた。さや

 

かのニュースも、そうした場で耳にしたことだった。

 

 年月は容赦なく流れ、私が五十の坂をこえて六十に近づいたとき、突然さやかから連絡があった。「商

 

社マンだった夫が病に倒れ、半身に麻痺がのこった。できるだけの看病はしているが、長い年月にわた

 

る介護はストレスがたまる。だから息抜きに、マージャンの仲間に入れてくれ」という申し出だった。「ご主

 

人はどうするの?」「その日には、区のリハビリの施設でショートステイしてもらうわ」。

 

 こうして私とさやかは、月に一回顔を合わせるようになった。そのころのさやかは、読む本がすべてフラ

 

ンス語になっていた。さやかは読んだ本についても話してくれた。そうした話の中で、シャネルブランドの

 

創設者ココ・シャネルについての話はいまでも強い印象で残っている。

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 ココ・シャネルは生まれると、すぐに孤児院に捨てられた。両親はもとより彼女の出生に関する事柄は、

 

いまでもなに一つわかっていない。長じて孤児院を出されると、パリでお針子になった。極貧の生活だっ

 

たという。高級コールガールになって二十五歳のとき、転機が訪れた。パトロンを掴んだのである。パトロ

 

ンは上流社会に属する紳士で、ココの頭のよさとビジネスの才覚を見抜いていた。パリで洋装店を開く資

 

金を与え、経営のイロハを教え、上流社会の婦人たちを客としてつれてきた。ココは本領を発揮して、

 

一代で世界のシャネルにまでブランドを高めた。ココは生涯独身をとおし、九十歳をこえる長寿をまっとう

 

して世を去った。晩年はパリの店の二階に続く階段に腰を下ろし、一日中客の姿を眺めていることが多

 

かったという。世界的な名士となり巨万の富を得たココだが、この広い世界にただの一人の血縁者も持た

 

ず、ただの一度も家族の温もりに触れることもない人生を送っていた。ココの心には、荒涼たる寂寥感の

 

みがあったのではなかろうか。

 

 さやかは、こんなことも言った。「時々無性にフランス語が聞きたくなって、映画館に飛び込むのよ。フラ

 

ンス映画であれば、どんなものでもいい。古いものでも三流のものでも、筋なんかどうでもいい。ただフラ

 

ンス語を聞きたいだけ」

 

 私は胸が痛んだ。可哀そうなさやか。外交官だったさやかの両親は、フランスで育ったさやかに日本人

 

としての自覚を持たせようと厳しく育てた。だから、さやかは日本人の心をもっていた。だけど、さやかに

 

とって真のふるさとはフランスなのだ。帰国したときは戦争の最中だったから、あきらめもついた。若くも

 

あったから、敵国となったフランスを心の中に閉じ込めておくことができた。だが老境に入り、二人の子供

 

も巣立ってしまったとき、さやかのフランスへの郷愁は堰(せき)をきって流れ出し、抑えることができなく

 

なってしまった。私はフランスに遊びに行くことを奨めたが、さやかは頑として実行しなかった。いま思え

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ば、おびえを感じていたのだろう。時間は冷酷である。故郷を感じ続けたフランスも、いつの間にか異国

 

になってしまっていた。フランスに行って、まるで異邦人になってしまった自分を認識するのは耐えられな

 

い。神経がズタズタになる。想像するだけでも、恐ろしかったに違いない。言葉が話せるだけでは、その

 

土地には溶け込めないのである。

 

 さやかは、またこうも言った。

 

 「私が呆けてしまったら、フランス語しか出てこないのではないかと思うと、心配で心配でたまらなくなる

 

の。子供たちもフランス語がわからない。病院に入っても、誰もフランス語がわからない。私はだれとも

 

コミュニケーションが取れなくなるのじゃないのかしら・・・」。さやかが

 

日本語を忘れることはないだろう、と私は思ったが、真剣に悩む彼女

 

に対してそれは言えなかった。

 

 七十六歳になって、さやかは自分の住んでいたマンションを処分し

 

て、老人ホームに入った。入居する二日前に、電話がかかってきた。

 

「黙っていこうと思ったけど、やっぱりお別れの電話をすることにした

 

わ。あさって老人ホームに入ることにしたの。もう会えなくなるから

 

お元気でね。さよなら」。まるで修道院にでも入るような言葉にあっけ

 

にとられながら、私はあわてて言った。「どうして? 私はいつでもあなたに会いにいけるのよ」

 

 「いいえ、来ないで。好奇心で来てもらいたくないの。電話もかけないで。電話が鳴ると悪い知らせかと

 

思って、心臓がドキドキしてしまうから。手紙も書かないで。返事を書くのが重荷になるから」。この言葉と

 

共に、私とさやかをつなぐ交友の糸は断たれることになった。さやかは七十歳になる前に夫を亡くし、

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それからは一人暮らしだった。さまざまなできごとが重なり、さやかは心を病んでいったように、私には思え

 

る。折に触れてさやかを想い、絵葉書の一枚でも送ろうかと思ったが、結局それも控えた。

 

 さやかは八十三歳で、その生涯を終えた。子供たちの手で密葬されたと、さやかの娘から知らせが届

 

いた。若いころのさやかの、屈託のない笑顔がいまでは懐かしい。(了)

 

 

 

住吉屋 クララ : 樫の木会会長。

  
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