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さっちゃん/犬塚 幸士

 

 私は内気で優柔不断な少年だった。父の転職にともない四年間に四回も転校すれば、教室の片隅で

 

ひっそりと目立たぬように過ごすことが、最良の保身術であることを覚えてしまう。「いじめ」らしいものに

 

も遭ったが、いつもニコニコしておっとりと構えていると、さほど深刻な目にも遭わずにすんだ。

 

 

 場所は中国の長春(当時の新京)、ときは昭和十六年(1941)、私は小学校四年生だった。親しい友人

 

もいなかったが、学校の行き帰りに一緒になる「さっちゃん」という色白で小柄、物静かで無口な少女と

 

友達になった。彼女の家は、わが家の横の大通りを渡ったところにあり、いつのころからか「さっちゃん」を

 

誘って登校するようになっていた。そんなある日、たぶん夏休み中のことだったと思う。あまり口を利いた

 

ことのない、鳥羽というロンドン返りの少々キザな少年が息せき切って私のところに飛んできて

 

「ユーのガールフレンドが、吉川たちに泣かされているぞ」。吉川というのは、イジメッコだった。「どこで?」

 

「階段の踊り場」。

 

 そのとき、自分がとっさに何を考えたのか、今では想像するほかはないが、とにかく躊躇することなく

 

立ち上がったときには駆け出していた。臆病な私ではあったが、小さな「さっちゃん」を救わなければなら

 

ないと、一種の使命感に燃えていたことは間違いない。殴られるかもしれない。だがそのときの私には、

 

打算も恐怖心もなかった。愚図で臆病な男が、生まれてはじめて捨て身で闘争心むき出しにして「階段

 

の踊り場」に駆けつけたのである。しかし幸いなことに、騒ぎはすでに収まっていた。

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 「大丈夫?」「大丈夫よ」。目に涙を浮かべたその微笑と白い歯が、六十年の歳月を経たいまも忘れられ

 

ない。それからまもなく、私は長春を去って大連に移った。

 

 

 その後、私は「さっちゃん」の消息を聞いたことはない。あれは幼い私の、初恋だったのだろうか。

  
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