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私と英語/片山 充代

 

「ユール ビー オーライト。あなたはすぐよくなるだろう、でしょう? 沢山の人が亡くなった、は、メニー

 

 ピープル ロスト。ロス? ロースト?」

 

「ローストだよ」

 

 乗り合わせた電車内での女子中学生のやりとりである。“ピープル”は“ピーポー”と聞こえる発音だ。

 

 会話の内容と体格から高校生と見ていたのだが、背負っているお揃いのザックに刻まれた校名で中学

 

生だと判った。今どきの中学生はこういう英語を習っているのだ。定期テストの勉強らしく、手に持った

 

プリントを胸に当てて暗誦したり、見直したりしている。

 

 近頃は、電車の中では一様に携帯電話のメールかゲームに夢中の学生を見かけることが多いので、

 

私はこの中学生達を好ましく思って眺めていた。私は、敗戦後に制定された新制中学校の初めての一年

 

生であった。英語の授業が楽しみで、めくった教科書の第一章は「I AM TOM BROWN.I AM A 

 

BOY」で始まったと覚えている。「THIS IS A PEN」もあった。この文を疑問文に変えてという先生の

 

問いに「ジス イズ ア ペン、か?」と答えて、いたずらっぽく笑った男子生徒もいた。

 

 英語を教えてくれたのは、専門的に学んだ人ではなく、陸軍出の若い男の先生だった。

 

私は熱心に学んだように思う。先生も私が提出したノートに、赤ペンで“WELL DONE”“EXCELENT”

 

など書いて戻してくれた。後年にその先生と会ったとき、「何を教えていたのかと思うと恥ずかしいな。

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親父にいつも予習してもらって授業にそなえていた」と笑われた。先生の父君はアメリカの大学を卒業さ

 

れていたのだった。

 

 中学校でも高校でも、英語の授業中に英語での会話が出てきたという覚えはない。高校でも、単語・

 

熟語・文法を習い、授業の中心は英文和訳だった。課外授業で“ロミオとジュリエット”や“嵐が丘”の英語

 

のダイジェスト版を読まされたが、訳すのに一生懸命で筋書を理解するところまではいかなかった。部活

 

動にESSというのがあったが、それが英会話のコースだったのかも知れない。

 

 高校の修学旅行での出来事を思い出す。行先は九州と四国だった。

 

 九州の別府温泉の和式旅館に着き、入浴、夕飯を終え、仲好しグループ七、八人づつが一部屋に割り

 

当てられた。私達は持参の寝巻きに着替え、くつろいでいた。二階の出窓に何人かが腰を掛け、あとは

 

畳の上に足を投げ出し、おしゃべりに夢中だった。下の通りに、進駐軍のアメリカ兵三人が現われ私達に

 

声をかけて来たので、皆が窓際により、手すりからのり出した。アメリカ兵

 

達は笑いながら大声で何か言っているが判らない。降りて来いというよう

 

に手招きしている。

 

誰かが「モンシマッテール。ティーチャーニ シカラレール」と言ったので、

 

皆はわっと笑いながら、口々に日本語を変なアクセントにかえてからか

 

い始めた。アメリカ兵は真顔になって私たちを見上げながら旅館の入口

 

の方へ歩き始めたので、私達はちょっと恐くなって静かになった。誰かが「あんた、英語で何とか言って」

 

と私に言った。私は何も言葉が出て来ず、かと言ってティーチャーのように正式なことも言えずにつっ立っ

 

ていた。騒ぎに気付いたらしい誰かが早足で階段を上がって来る音が聞こえた。私達は一斉に手すりか

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ら離れ、すでに敷いてあったふとんの中へもぐりこみ、掛ぶとんで顔をかくした。

 

 部屋の戸が開いて「皆さん、何をしていますか?」担任の女教師がこわい顔で私達を見まわしていた。

 

私達はしんとなっていたが観念して一人が「進駐軍が声をかけて来たので…」と言い訳をした。みんなも

 

ふとんの上に座り直して神妙に頭をたれた。ひとしきり先生の小言が続き「馬鹿なことはしないように」と

 

言って先生は降りて行った。私達はほっとして顔を見合わせた。アメリカ兵の姿はもう消えていた。

 

 「あんたの英語もあかんな。役にたたへんな」と誰かが私に言ってみんなで笑った。私も一緒になって

 

笑っていた。

 

 私達の女子校では髪のパーマも薄化粧も黙認されていた。御多分にもれず私達グループもみんなそう

 

していたし、旅先のおふざけも加わり化粧も濃い目だった。その上浴衣やネグリジェ姿で窓辺に並んで

 

騒いでいる姿は学生には見えなかっただろう。呼べば相手をしてくれるだろうとアメリカ兵が思ったと

 

しても当然のことである。当時のクラスメートが集まると、いまだにこの話になって盛り上がる。

 

 五十代半ばになって海外への観光旅行に出かけるようになった。最初の旅行は稽古事の先生の企画

 

によりグループで出かけた。英語に堪能な若い男性添乗員が頼りだった。三度目くらいから友人の企画

 

による個人旅行が多くなった。企画してくれる友人は大学の英文化卒だったり、アメリカ人について英語

 

を習っていたりで、積極的に外国人に話しかける。私は大抵横でその様子を眺めているだけで過ごして

 

来た。

 

 前回のベルギー旅行でのこと。同行の友人が運転するレンタカーで道に迷い、宿泊先への到着が、

 

予定時刻より大幅に遅れることになった。長時間、高速道路でハンドルを握り続ける友人は、遅れる旨を

 

宿に連絡するようにと携帯電話を私によこした。

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 「私は出来ない。どこかへ車を停めて、あなたやってよ」と私。

 

 「だめ。停めるところもないしそんな時間もない。それくらいやってよ」といらだった様子でスピードを落と

 

さなかった。

 

仕方なしに携帯電話の数字を押して呼出音を待った。二度ばかり鳴って相手が出た。

 

「ハロー?」男性の声だった。

 

「ハロー、ジス イズ SMコーリング」と友人の名を言った。すかさず「オー フロム ジャパン?」と愛想の

 

いい声で返事があって、通じたのだと一安心。

 

 「アイム ソリー ウィ ウィル ビー レイト」と言った気がする。

 

 「オー ノン プロブレム 何時に到着?」

 

 「PM九時頃」

 

 「オーケー。何かあったの?」

 

 「ウイ ロースト ザ ロード」

 

 「それは気の毒に。で道は判った?」

 

 「イエス ウイ アンダースタンド」

 

 「それはよかった。待っているよ。何かあったらもう一度電話して」

 

 「サンキュー ソー マッチ」

 

 電話を切ると目を閉じたまま、シートの背に上半身を打ちつけてしまった。全身の力が抜けた。

 

 横で友人が「グッジョブ!出来るじゃない」と笑っていた。

 

 電話の相手の言葉を英文には出来ないけれど、多分そう言っているのだろうと思った。

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 ヨーロッパの人の英語のほうがアメリカ人のよりは私には判りやすい気がする。

 

 あの電話は最初で、そして最後の私の英会話だろう。(了)

  
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