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雑感―Aロンドンに飽きた者は…

 

 ヨーロッパ諸国への取材が多い生活をつづけているが、不思議と英国が取材先になるこ

 

とがない。「あのう…、ロンドンの大学で学んだことがあるのですが…」と、キャリアをウリに

 

して出版社や新聞社とかけあうのだが、行く先はいつも大陸方面。つらつら思うに、「英語

 

で取材できるジャーナリストならゴマンといる。なにもアンタじゃなくたって」というのが、

 

先方の言い分のようだ。仕方がないので、取材日程をやりくりしてロンドンを訪れ、英国の

 

友人達と久闊(きゅうかつ)を叙している。

 

 

 ロンドンは、やはりテムズ河畔がいい。ビッグベンの鐘の音は重厚な響きで歴史の刻を

 

きざみ、ウエストミンスター寺院は歴代指導者の祈りの場として荘厳な姿でたたずみ、

 

国会議事堂は大英帝国のかつての威風をテムズの川面になげている。議会の入り口に

 

は、英国騎士道の華とうたわれた「獅子心王リチャード」と、英国からカトリック勢力を一掃

 

するために国王の首まで切り落としてしまったクロムウエルの像が相対してたっている。

 

一見「相矛盾するのではないか?」とも思ってしまう英国史上の人物なのだが、それを

 

平然と国政の府の入り口に並べてしまうのも、実に英国人らしい。

 

 「ロンドンに飽いた者は、人生に飽きた者だ」とサミエル・ジョンソンが言ったように、ロン

 

ドンはまことに興趣つきない街で、リージェント通りの名門百貨店ハロッズや高級ブランド

 

店のアクアスキュータム、バーバリー、ガラードなどでショッピングを楽しみ、その後でアフ

 

タヌーンティーと洒落こむのもいいが、この街そのものの歴史を少しでも知っていれば、

 

散策の面白みはさらに増す。

 

 

 例えばセーブルロード。この小さな裏通りには、テーラー(仕立て屋)

 

が軒を並べている。開国日本、明治の昔に、波頭万里を越えて洋服作り

 

の職人たちが修業にやってきたのがこの通りだった。なにしろ上は首相、

 

大臣から下はハイカラさんにいたるまで、英国紳士をモデルにした文明

 

開化の時代だったから、背広の需要はいくらでもあった。帰国した仕立屋

 

たちがスーツに与えた名前がセーブルロー、これが訛(なま)って背広に

 

なったというエピソードが残っている。

 

2

 

 ところで「大英帝国」という名称は、それ自体で人格を感じさせる。大和魂に匹敵するの

 

は、ション・ブル精神。孤独に強く、ねばり強く、「気どり過ぎじゃあないのか?」と思ってし

 

まうほどの紳士ぶりを発揮しながら闘争心旺盛。かといってガムシャラではなく、「引くべき

 

ときは、さっさと引き下がる」といった変わり身の鮮やかさは、国家としての英国にも個人と

 

しての英国人にもあり、事実英国のナショナルスポーツといってもいいラグビーや、絶大な

 

人気を誇るサッカーのスター選手のプレーぶりを見ていると、いつもそうした心意気を感じ

 

てしまう。

 

 ユーモアのセンスを大切にするのも、この国民らしい。「苦しいときこそ笑いが必要」とい

 

うことをよく心得ている。だから、悲壮感にかられて行動はしない。

 

 第二次世界大戦初期、ヨーロッパ大陸でナチス・ドイツが破竹の勢いでフランスを席巻し

 

たとき、英国の大陸軍は、フランス、ノルマンディ海岸の小さな港ダンケルクに追いつめら

 

れた。英国はあらゆる船舶を動員して、英国兵を救出した。武器弾薬はすべて置き捨て。

 

ただし軍用犬やペットの犬は抱きかかえて、もちかえった。

 

 「こういう調子だから、やつらは戦争に負けるのだ」と、当時のスイスの日本領事館では

 

新聞の紙面をたたいて語られたというが、この話を記録した館員は「生命を粗末にしない

 

民族は、結局強いのではないか」と自分の意見をメモしている。そして結果は、そのとおり

 

になった。

 

 英国気質を示すもう一つは、ダンケルクの撤退しが終了したときのチャーチルがラジオ

 

で送った国会演説である。「フランスのビガー将軍のいった〈フランスの戦〉は終わった。

 

 

今から〈英国の戦い〉がはじまる」。

 

チャーチルは力強く、しかし淡々と述べ

 

た。議員は総立ちとなって拍手を送り、

 

大陸での負け戦に意気消沈していた

 

た兵士ちは涙を>流して奮い立った。

 

ガックリきたのは、連戦連勝のうえ、

 

英国軍をドーバー海峡に追い落として

 

得意満面だったヒットラー。

 

「いつ、英国は休戦を申しこんでくるだ

 

ろう?」と首を長くして待っていたからである。この二つのエピソードは、「心の在り方」

 

「言葉の力」を如実に物語るよい例だと、私は思っている。

 

 

3

 

 この英国を帝国として偉大ならしめたのは、まごうかたなく一人の女性、「女王エリザベ

 

ス1世」である。時代は、16世紀の半ば。日本は戦国時代にあたる。日本が信長、秀吉、

 

家康と、まことに男臭い時代だったのに比べて、英国は女の時代。登場人物は、ヘンリー

 

8世の妃キャサリン・オブ・アラゴン。彼女の両親はスペインからアラブを追い出したカトリ

 

ック国王で、父親はアラゴン王フェルナンド、母親はカステリア女王イザベラ。妃キャサリ

 

ン・オブ・アラゴンの娘で、王位を継いだ女王メアリーは、父親ヘンリー8世がうちたてた

 

英国国教をくつがえそうと、その弾圧の凄まじさで「ブラディー・メアリー(血まみれのメア

 

リー)」と渾名された。この名前は、現在カクテルの呼び名として残っている。そして、この

 

2人の後をうけて女王になったのがエリザベスである。母親は、ヘンリー8世の2番目の妻

 

アン・ブーリン。

 

 エリザベスが女王として人の心をつかんでいく巧みさや駆け引きを見ていくと、「まさに

 

女…」と絶句してしまう。よく知られているように、エリザベスは処女女王(バージン・クイ

 

ーン)だった。だから、求婚者がヨーロッパの王家から群がった。16世紀の超大国のスペ

 

イン国王フィリッペ二世もその1人だった。だいたいエリザベスの父親ヘンリー8世の最初

 

の妃キャサリン・オブ・アラゴンは、フィリッペ2世にとっては大叔母にあたる。「陽沈まざる

 

帝国」といわれたスペイン、「カトリック教の守護者」と自認するスペインは、イギリス国教と

 

いうカトリックともプロテスタントともつまぬヌエのような宗教をおもてにたてる英国を、何と

 

してもねじ伏せ、ふたたびカトリック教国にもどす意志を固めていた。

 

 

 エリザベスは群がる求婚者に対して、な

 

びくようななびかないような曖昧な態度で

 

接しつづける。だいたい女性は引く手あま

 

たの状態に自らを置き、思わせぶりな

 

素ぶりは示すものの、心の内はあかさな

 

いものだが、この極めて優柔不断な態度

 

がスペインやフランス、神聖ローマ帝国

 

(ドイツ)などの列強を振り回し、小国だった英国をして16世紀の複雑なヨーロッパの国際

 

関係をたくみに泳がせてしまったのだから面白い。

 

 結論はボカす。原則がない。ケチである。例えば、エリザベスは有力貴族を次々に訪ね

 

歩いて、饗宴を楽しむと同時に、貴族の間に「女王の心はどこに…」という疑心暗鬼をうえ

 

つけながら贅をつくさせ、チャッカリ宮廷の費用をうかせたといわれる。こんなことは騎士

 

道精神が求められていた時代の男性には、とてもやれる芸当ではない。曖昧模糊とした

 

姿勢のまま、エリザベスは「次は海の時代。海を支配するものが時代の覇者になる」

4

 

「七つの海の支配権をかけて戦う相手はスペイン」と冷静に見定めて着々と準備をすす

 

め、やがて超大国スペインが誇る無敵艦隊をむかえうつと、激烈な戦いのすえに海の底に

 

叩き沈めてしまった。これ以後英国は七つの海を支配し、海洋国家として交易をほぼ独占

 

し、大英帝国への道を歩き始める。いっぽうスペインは、長い衰退の道を下り始める。エリ

 

ザベスに結婚を申し込んだフィリッペ2世こそいいツラノカワだった。

 

 テムズ川の川風に吹かれながら散策するとき、旅する者の多くはこの国がもった偉大な

 

女王のことに思いをはせるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

島津豊久のこと

ロンドンに飽きた者は・・・

円高の2011年

ムクゲの花

 

谷克二が、故郷宮崎のホームページ

に寄稿した文章から。

 

 

 

 

 

谷克二が講師を努める、30年の歴史

を持つ文章を学ぶ教室からお届け。

 

 

 

 

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