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雑感―@島津豊久のこと

 

 宮崎市の北にある佐土原の地は日向

 

灘に面し、一ッ瀬川の下流にひろがる

 

地味ゆたかな沃野である。一月の雨が

 

そぼふる朝、佐土原の鶴松館(かくしょ

 

うかん)を訪れた。開館まで門の前で雨

 

をさけていると、責任者の方が「少々は

 

よう入館しても、かまわんですがァ」とし

 

みいるような笑顔で入場券を売ってくれ

 

た。おかげで雨音の静けさの中で、古

 

文書や歴代藩主の画像などをゆっくり

 

見てまわることができた。

 

 

 佐土原をたずねた目的は、佐土原の二代目領主の島津豊久(とよひさ)に興味があった

 

からである。この地は鎌倉以来伊東氏の所領だったが、戦国期に力をのばしてきた島津

 

氏に強奪されてしまった。その島津も十年をまたずして天下統一をめざす秀吉の九州征

 

伐軍に膝を屈した。しかし佐土原は、島津領として本領を安堵された。このとき城主になっ

 

たのが、十八歳の島津豊久である。

 

 豊久は三十一歳で関ヶ原に散った。だから、十三年間だけ城主だったことになる。その

 

姿は関ヶ原合戦絵図にも描かれていて、島津勢の総大将で伯父の維新入道義弘の横に

 

あり、鎧兜に身をかためて馬にのり、長柄の槍をもっている。小太りの躰とふくぶくしい顔

 

つきからは、薩摩隼人の剽悍(ひょうかん)さより、

 

むしろ人柄のよい落ち着きを感じる。鶴松館では

 

〈豊久ゆかりの品でもあるのか…〉と展示品に期

 

待したが、わずかに家系図にその名が記されてい

 

るだけであった。

 

 関ヶ原の戦いは、天下人太閤秀吉の死が発端

 

となった。太閤の死は朝鮮の役で出兵していた

 

日本の軍勢が無事ひきあげるまで伏せられたが、

 

葬儀のときには遺骸は土甕(つちがめ)に入れられ焼酎でひたし、京都の豊国神社に埋葬

 

された。焼酎がこの時代飲みものではなく、むしろ薬用としてもちいられていたことがうか

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がえて面白い。

 

 天下の主の死により、にわかに戦雲がたれこめた。よく知られているように、徳川家康と

 

大坂方の石田三成が二年一ヵ月にわたって虚々実々のかけひきをおこない、諸将への

 

政治工作や調略がくりひろげられた。戦気が満ち、「ころやよし」と家康が天下取りの第一

 

歩をふみだしたのが関ヶ原の一戦だった。慶長五年九月のことである。

 

 島津勢はこの戦いの前後、まことに奇妙なうごきを見せる。最初は、ときの勢いのまま

 

石田三成の組織した西軍に加わったが、徳川方の守る伏見城攻撃が決まると、きゅうに

 

変心して守将の鳥居元忠に内通し、伏見城に入城しようとした。伏見城は石田三成の

 

西軍をできるだけ足留めする役割をになっていた。とうぜん守将の鳥居元忠は、島津の

 

心底をうたがう。門は開かれなかった。「ならば…」と島津はさっさと西軍にもどり、美濃の

 

大垣城に石田三成らと入城した。しかし大垣城の軍議で、「徳川勢に夜襲をかける、かけ

 

ない」の作戦をめぐって石田三成と衝突してしまう。結局夜襲はおこなわれず、このとき

 

の感情のもつれが関ヶ原の合戦で、島津勢をしてさらに奇妙なうごきをとらせることとな

 

った。島津勢は西軍に属してはいたが、戦闘が火花を散らすように苛烈になっても微動だ

 

にしなかった。たまりかねた石田三成が馬で

 

駆けつけ、出撃を強くうながしても、司令官

 

の島津維新入道は床几を立とうともしない。

 

島津勢が火を吹くように東軍に襲いかかった

 

のは、西軍が総崩れになり、戦いの帰趨(き

 

すう)が決してからのことであった。「島津の

 

敵中突破」と後世語りつがれる壮絶な突撃だ

 

が、見方によれば合戦が終わってからの突

 

撃など滑稽といえば言えなくもない。

 

 それはともかく島津は嚆矢型の突撃隊形を

 

とり、中央に山駕籠にのった大将維新入道義弘を置いて家康の陣めがけて突入した。島

 

津豊久が先頭をきった。

 

 東軍はさすがに驚いた。すでに勝利は確定していたからである。しかし福島正則隊の先

 

鋒である福島正之の一隊がすぐに反応した。大将の福島正則は死兵と化した島津勢を見

 

て、「あのような兵は迎え撃つな」と全軍に制止をかけたが、その命令は正之にはとどか

 

なかった。福島隊はアッという間に、はねとばされた。ついで徳川軍団で最強といわれた

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井伊と本多が、島津をかこんだ。その包囲の輪を、島津は破ってはすすみ、すすんでは

 

破って東軍の陣の中央をぬけ、いっさんに伊勢街道へと走った。

 

 井伊と本多の兵は、さらに追った。関ヶ原南東に烏頭(うとう)坂がある。その坂でふたた

 

び追いついた。狭い坂道は両軍あい乱れての大乱戦となった。このとき豊久はすばやく伯

 

父義弘の猩々緋の陣羽織をまとい、長槍をかざして「われこそは維新入道」と叫んで部下

 

とともに追手に突入した。「すわ、大将」と敵はいっせいに襲いかかった。豊久は槍が折れ

 

ると長剣をもって荒れ狂った。しかし本多勢の八本の槍に胴をつらぬかれ、討ち死にした。

 

そのとき身につけていた紺糸威(こんいとおどし)の鎧は、現在鹿児島の尚古集成館に

 

展示されていて、槍跡もはっきり見えている。

 

 乱戦は豊久の戦死のあとも続いた。後世に語り伝えられる「薩摩の繰り詰めの法(座禅

 

陣、別名ステガマリ)」の戦法がとられたのも、この烏頭坂の退却戦のときだった。後備を

 

うけもつ決死の兵が路上に点々と居のこり、銃で追尾してくる敵兵を銃で狙撃する。射撃

 

を終えた兵は最後尾まではしってふたたび装填し、狙撃をくりかえすという戦い方である。

 

井伊勢をひきいた井伊直政、越前兵を指揮した家康の四男松平忠吉も銃弾をうけ、落馬

 

転倒し、部下にかつがれて最前線を離

 

れた。この捨て身の陣も弾がつきて崩

 

れた。島津勢は次々にうたれていった。

 

家老の阿多入道盛淳(もりあつ)も、義

 

弘の身代わりとなって討ち死にした。し

 

かしとにもかくにも大将の義弘維新入

 

道は主戦場を離脱し、伊賀をぬけ、堺から船で日向まで逃げきった。鹿児島に帰還した

 

義弘を長兄の義久竜伯入道は出迎え、「このたびは、古今無双のおはたらきにて」とねぎ

 

らった。千人の兵は八十二名になっていた。

 

 

 東西両陣営の間をいきつもどりつした島津の奇妙なうごきは、発言力のなさと情報不足

 

からくるものだった。戦国大名は徹底的な功利主義者であり、勝つほうにつくのは常識で

 

ある。だが上方(かみがた)にあって兵力三百と寡兵だった義弘は発言権もよわく、その

 

弱い立場ゆえに裏切りを警戒された。意見もとおらない。いきおい態度は人づてにきこえ

 

てくる二次情報によって決めざるをえなくなる。後世から見れば奇妙にみえるうごきも、

 

島津のわが身の安全を守るやむをえない行動だった。この関ヶ原での体験が、「情報の

 

大切さ」を島津の胆にきざみこみ、徳川の世ではたえず情報収集に意をそそぐうごきと

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なった。これが二百六十年後に実を結び、幕末維新における薩摩藩の変幻自在ともいえ

 

る政略や外交のあざやかさにつながる。

 

 話が前後するが、私には烏頭坂で戦死した島津豊久の壮烈な自己犠牲の理由がなが

 

いこと理解できなかった。「大将首をわたさぬのは、当時の戦の習わし。だから総帥の維

 

新入道の身代わりとなって討ち死にしたのだ」とはされているものの、豊久は少なくとも

 

一国一城の主なのである。それが「なるほど。そうだったのか」と合点がいったのは、つい

 

さきごろ資料を読んでいるときだった。

 

島津は鎌倉以来の名門だが、ご多分にもれず南北朝の争乱あたりから一族の殺し合い

 

がつづいて、四分五裂のありさまとなった。この一族を戦国期にまとめ上げたのが島津

 

貴久(たかひさ)である。この貴久には四人の男子がいた。長男が国をまとめた義久(竜

 

伯入道)、次男が関ヶ原で奮戦した義弘(維新入道)で四男が豊久の父である家久である。

 

この家久が佐土原の初代城主だったとき、秀吉が九州平定にのりだしてきた。迎え撃った

 

島津勢でもっとも激しく遠征軍に抵抗したのが、家久ひきいる一軍であった。島津最後の

 

戦は、根白坂(現在の木城町、椎ノ木。高鍋の近く)で戦われた。家久は兄の義弘と共に

 

力戦奮闘して力つきた。そして人質として、羽柴秀長(秀吉の弟)の陣におもむいた。「降

 

伏の使者として敵陣におもむいてくれ」と、義弘が説得したとされている。しかし秀長は、

 

島津の猛将を生きてかえさなかった。数日後、「陣中にて病死」の報が島津にとどく。おそ

 

らく、毒殺されたのだろう。

 

 義弘は地をたたいて末弟の死を悲しみ、ただちに豊久の後見人となって、佐土原領二万

 

三千石の安堵と豊久の家督相続を秀長に談じこんだ。秀長もさすがに後味が悪かったと

 

みえ、申し出をうけ入れ、ことに幕をひいた。若い豊久がこのことで、伯父に深く感謝し報

 

恩を胸にひめたであろうことは、容易に想像できる。

 

 十三年後の慶長五年、戦雲が東西の間にたれこめたとき、義弘維新入道は兵三百と共

 

に大坂にあった。兄の義久竜伯入道は鹿児島にいたが上方(かみがた)の詳報が入らず、

 

かつ九州の事情もからんで、総動員令をかけられなかった。九州の事情とは、豊前(福岡

 

県東部と大分県の北部一帯)の如水黒田官兵衛が活発な運動を開始していたことである。

 

黒田官兵衛はかって秀吉の参謀をつとめた知将であり、「わしの死んだあと、天下をとる

 

のはア奴よ」と秀吉にいわしめたほどの謀将だった。天下の乱れを察し、当然のごとく覇

 

権を狙った。黒田官兵衛は、豊前にわずか十万石の領地しかない大名だったが、金銭や

 

政略を用いつつ、手妻(てずま)のようなてぎわのよさで豊前、豊後、筑前、筑後の諸城を

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一か月でぬいて軍勢を拡大しながら、肥後の加藤清正と手を組んで薩摩に攻め入る気配

 

を見せていたのである。そういう状況にあったので、薩摩は援軍をかみがたには送れなか

 

った。維新入道は、兵三百とともにかみがたで孤立した。

 

 伯父が窮地にあるのをしった豊久は、ただちに兵七百をひきつれて大阪にかけつけた。

 

豊久の胸中には、「恩をかえすのはこのとき」の思いがあったのだろう。この七百という

 

兵の数は、佐土原藩の全兵力にひとしい。これらの経緯(いきさつ)をしって関ヶ原合戦

 

絵図にえがかれた豊久を見ると、島津の若き武将に春風のようなさわやかさを感じてしま

 

う。

 

 豊久のことをかんがえながら家系図を見ていたら、家刀自(かとじ)という言葉がピタリと

 

あてはまる上品な老婦人が入ってこられ、「ガイドの三浦です」と名のられた。佐土原の

 

史料館に専門のガイドさんがいることにも驚いたが、三浦さんの歴史知識の豊かさにはさ

 

らに謙驚かされた。「たんなる歴史ずきなんです」と遜(けんそん)しておっしゃったが、そ

 

の博学ぶりはなみたいていのものではなく、島津独特の陣構えについてさえ深い知識を

 

おもちだった。

 

 「関ヶ原にはなんどもいきました。多羅(多良)の村もたずねたことがあります」と、三浦さ

 

んはおっしゃった。多羅は関ヶ原を島津勢が離脱するとき、徳川勢の追撃のあまりのきび

 

しさに、維新入道義弘が「もはや、これまで」と、いちじ死を覚悟した場所である。

 

 鶴松館を見終ったあと、車で十分ほどの山の

 

辺にある豊久の墓を、三浦さんの案内でたずね

 

た。春雨にぬれる墓石を見ていたら、「豊久は

 

ここより、むしろ関ヶ原町でのほうが有名なん

 

です」と、三浦さんがつぶやくようにいわれた。

 

すこし寂しげなその口調が雨音にとけいるよう

 

で、きわめて印象的だった。(了)

 

島津豊久のこと

ロンドンに飽きた者は・・・

円高の2011年

ムクゲの花

 

谷克二が、故郷宮崎のホームページ

に寄稿した文章から。

 

 

 

 

 

谷克二が講師を努める、30年の歴史

を持つ文章を学ぶ教室からお届け。

 

 

 

 

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