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焼酎今昔―Dマナベとチエコちゃん
故郷宮崎の友人から、「月の中」という焼酎が送られてきた。古墳群と菜の花で全国的
に知られている西都(さいと)市の焼酎で、「月中」は杜氏(とうじ)がお住まいになっている
場所の名前。この焼酎を、友人は長年愛飲している。

友人は詩人だから、短い詩が添えてあった。「…二十五度の
焼酎は、そのまま生(き)で飲むのがいい。一升瓶から湯呑みに、
トクトクと納得ずくで移して、月の光のしずくがあまねく地上に
降り注ぐように、やわらかい酔い心地…」。そして月の中を訛って、
つきンなかと詠(うた)っていた。
さっそく湯呑みについで、喉奥に送り込んだ。甘い味が味蕾(み
らい)を刺激し、そこはかとない芋の香りが鼻腔に抜けていく。東京
の我が家の狭い庭に咲く椿が、午後の光を浴びていた。メジロが一羽飛んできて、蜜を
吸っている。焼酎の酒精が身体の隅々まで拡散して、五体が酔いに溶けていった。その
酔いに身をまかせていたら、数年前メジロを見ながら焼酎を酌み交わした中学時代の
友人を思い出した。
中学生だったころ、仲がよかった同級生にマナベという男がいた。躰のつくりが華奢な割
りには頭の鉢がでかかったので、渾名は仮分数だった。数学でいう「分子が分母より大き
い分数」のこと。いっぽう背がヒョロリと高かった私には、電柱という渾名がついた。二人に

は足がのろいという共通点があった。だから、運動会
は恐怖の年中行事だった。「なんとか速く走れるよう
になりたい」という思いから「馬糞(ばふん)を踏むと
足が速くなる」という田舎の俗説を鵜呑みにして、
二人でお百姓さんの厩(うまや)にしのび込み、裸足
になって馬糞を踏んだりした。「あのヌチャリとした
感触は、いまでも忘れられん」と三十年ぶりに同窓会
で会ったとき言ったら、「ほんのこつ。あったかかったり、冷めたかったり、気持ちの悪いも
んじゃった」とマナベは白髪頭をふりながら大きくうなずいた。ついでながら、牛の糞は「踏
むと足がのろくなる」とされていた。
中学校で私は柔道部に入り、マナベは合唱部に入部した。柔道場から、合唱部の練習
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風景が見えた。男子生徒と女子生徒が、ピアノの伴奏で仲良く声張り上げている。何度も
マナベを「うらやましい」と思った。そのうちマナベは合唱部でチエコちゃんという女の子と
仲良くなった。二人が一緒に部活の後片づけなどをしている姿も、よく見かけるようになっ
た。それでも噂がたたなかったのは、美男美女の組み合わせではなかったからだろう。
いっぽう柔道部の私には「臭い、汚い、不潔、野蛮」とロクでもない評価がついてまわり、
しかも二年生の後半から主将になったので、淡い思いを寄せた女生徒との間柄もサッパリ
進展しなかった。
季節が三度巡って卒業の春を迎えたとき、ライバル校の柔道部から野試合を申しこまれ
た。そのような蛮風が、まだとうじの南九州には残っていたのである。いま思えば、「いかに
も幼い」と苦笑いをしてしまう程度のものだが、私も部員達も母校の名誉を担(にな)ったよ
うな気分になって興奮し、勇み立った。雑草の茂る川原が、試合場だった。先生達に洩れ
ないように段取りが運ばれた。しかしながら中学生の柔道の腕前程度では、「野試合」な
どではなく態のいい子供の喧嘩にしかすぎない。

野試合は、夕方五時のお寺の鐘の音が合図だ
った。私は三年生の部員と川原に向かった。夕闇
が大気に浸透して、川風が冷たかった。堤防を
おりるとき、学生服のマナベが土手の下に座って
いるのに気づいた。
〈どこからか野試合の噂を聞きつけて、見にきた
のかな?〉。そう思ったが、気にもとめずに私は川
原にかけ降りた。相手校の柔道部員はすでに待ち構えていた。双方二十名ほど。柔道の
技などすぐにそっちのけになって、全員入り乱れての殴り合いとなった。そして、わが校の
柔道部の腰がくだけた。こうなると一目散に逃げるしかない。捕まれば袋叩きになる。必死
で逃げた。一瞬、学生服を追い抜いたような気がしたので振り向いたら、マナベだった。目
を剥き、口を開け、手を大きく振って、お神楽のお面のような顔で走っていた。
〈関係ない奴が、なぜ走っているのだろう?〉。そんな思いが、チラリと脳裡をかすめたが、
我が身を守るのが精一杯の私は川原を走り、土手をかけ登った。振り返ると逃げ遅れた
のが一人、相手につかまってボコボコに殴られていた。学生服だ。〈マナベだ…、助けに
いかなくちゃ…〉。だが意志とは裏腹に、脚が地面に張りついてうごかない。
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そのとき、マナベを囲んでいた柔道着の輪がワッと
くずれた。女の子が一人、金切り声をあげて鞄を振り
回し、相手校の柔道部員を追い散らしていた。チエコ
ちゃんだった。凄まじい剣幕だった。鞄で殴りつけ、
はたきつけ、短い足で蹴とばしていた。夕闇に柔道着
が逃げまどった。

そして、五十余年の歳月が過ぎた。去年の
二月、春の陽差しがさしこむ宮崎のマナベの
家の縁側」で、二人で焼酎を飲んだ。焼酎は
「月の中」。昔語りをしているうちに、ふと中学
時代の野試合の日を思い出した。
「あのとき、お前はなぜ俺達と一緒になって
逃げたつか? お前は関係ないから、逃げん
でもよかったじゃろが?」
「うちン学校が総崩れになった。それで、気がついたら皆と一緒に走っちょった」
「付き合いのいい奴じゃなア」
「お前の逃げ足の速かったこと!」と、マナベは熟した柿のような顔を私に向けた。
「あんげ速く走るお前を見たのは、初めてじゃった。アッと言う間に抜かれてしもうた」
「そりゃア、俺りゃア主将じゃったから、捕まりゃタダじゃすまん。必死で逃げたつよ」
「俺はドンケツになって、トッ捕まってしもうて…。お前と同じ馬糞を踏んだつに、どこで
走りに差がついたっちゃろかいナ?」
マナベはあのとき、チエコちゃんと土手で待ち合わせていたのである。学校の外での、
初めてのデートだったそうだ。胸ときめかして恋人を待っていたのに、思わぬ災難に巻き
込まれてしまった。
災難は災難だったが、恋人の危機を救ったチエコちゃんの活躍は、二人の仲をいっそう
深めたようだ。交際はその後も続き、やがて二人は結婚して三人の子供をつくって、いま
では七人の孫のお祖父さんとお祖母さんになっている。
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障子が開いて、チエコちゃんが入ってきた。もはや「ちゃん」付けでは呼べないほど白髪
と皺だらけになっているが、気の強い南国女の気質はまだ目の輝きに生き生きと満ちてい
る。大皿にブリと大根の煮つけが盛られ、醤油の美味そうな匂いがわきあがっていた。
チェコちゃんは大皿を床に置き、「ハイ、焼酎のサカナ。どうぞ、ごゆっくり」。それだけ言う
と、台所にもどっていった。
「お前や、あんときボコボコにされたが、将来のカカアはしっかり手にいれたっちゅうこと
じゃなア」。私はしみじみ言った。「マ、そうゆうこっちゃ…」とマナベは目尻の笑い皺を深
め、焼酎のコップを口につけて顎をあげた。
〈幸せな男だ〉と、私は思っった。メジロが生垣の藪椿を枝わたりしながら、花の蜜を求め
ていた。

回想のページが閉じられ、私はふたたび東京
の家で「月の中」の酔いに身をまかしている。
ガラス戸を通して、庭の椿が見える。透明な春
の夕暮れどきの陽の光を浴びながら、メジロは
花の間を飛びかっている。〈人間すべからく
塞翁が馬、といったような言葉があったなァ〉
と私は胸の中でひとりごちた。マナベもチエコ
ちゃんも、人生のどこかで、なんどかこのよう
な言葉を思い浮かべたことだろう。〈月の中、
つきンなか…か。転じて、つきンなかは、尽きぬ
仲にもなるな…〉。
焼酎の酔い心地を楽しみつつ、私はそんな語呂合わせにさえ人生のおかしみを感じてい
た。(完)。