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焼酎今昔―A二月の雨

 

しみじみと、きょう降る雨はきさらぎの、春のはじめの雨にあらずや、と若山牧水は詠った

 

が、鈍色(にびいろ)の空から白く糸を引いて落ちてくる二月の雨は人にもの思いを深めさ

 

せ、弥生(やよい)三月の陽の光を待ち望ませる。原稿を書いているいま、外は雨。ふるさ

 

との宮崎の野山では草木が寒さに身を引き締め、明るい春を待っていることだろう。そのこ

 

とを思いつつ、焼酎の思い出をさまざまに語ってみる。

 

 

 「雨に焼酎」となると、決まって思い出す情景が

 

ある。場所は県北の山の村。家は藁屋根の農家。

 

板敷きの間には囲炉裏がきられ、自在鍵の先で

 

炉の火に鉄瓶がシュンシュンと湯気をたてている。

 

煙の匂いがいつも部屋に漂っていたような記憶が

 

残っているのは、おそらく木目の浮いた床板、黒

 

光りする柱や天井に、ながい年月かけて燻(いぶ)

 

しこまれた香りがあったからだろう。障子戸を開けると、渓流ごしに雨にけぶって対岸の山

 

桜が見える。沙(しゃ)のような二月の雨をうけて、おぼろに山の緑から浮きあがる山桜は、

 

夢に見る美の化身のようであった。家の主は伊助という名前で、無類の焼酎好き。小柄な

 

躰は篠竹(しのだけ)のように柔らかく、日焼けした顔は地肌から底光りをしていた。

 

 山田に米をつくり、谷川に山葵(わさび)を育て、山林に椎茸を植えるこの男と知り合った

 

とき、私は十三歳だった。伊助は四十代の壮年期。子供の目にはえらく年寄りに見えたが

 

いまの私と比べれば二十歳ちかく若かったことになる。働き者だったが、女房にかかると

 

「ヘッ、焼酎ばっかし食らっちょって」ということになる。「自分の亭主を、利口で働き者と思

 

っている女房はいない」という英国の言葉があるが、女は女房になると、とかく言葉の端々

 

までキツクなる。

 

 焼酎を飲む姿が、えらくいい男でもあった。炉端で胡座(あぐら)を組み、背をいささか丸

 

めて焼酎の入った茶碗に口をつける。顎が上がる。背筋がのびて、喉仏がうごき、喉が

 

クックッと鳴る。茶碗が口元を離れると、フッと吐息がもれる。ついで板敷きに茶碗がコトリ

 

と置かれ、右手でタバコ盆の煙管(きせる)をとる。左手の親指と人差し指が煙草をつまん

 

で丸め、火口にキュッと押しこむ。右手の煙管が粗朶火(そだび)にのびる。煙草が火をと

 

る。伊助は吸い口をくわえて一服吸いこみ、「フーッ」と白く細長い煙を吐きだす。そのとき

 

姿勢は、すこし右に傾いている。これらのうごきが芝居で名場面を演じる役者のように決

 

まっていて、子供の眼で見てもまことにカッコよかった。

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 焼酎を呑むとき、伊助は目分量で素焼きの二合徳利に焼酎を

 

入れて水で割った。徳利は囲炉裏の灰に、ねじ込むようにして

 

立てる。粗朶火の火照りが徳利を温め、焼酎と水は熱をうけて

 

次第にまろやかに交わっていく。やがて徳利の口から、芋の香

 

が流れでてくる。これはあの時代なら、どこでも見られた焼酎

 

のお湯割りをつくる作法だが、火鉢(ひばち)が日本の家庭から

 

消えてしまってからはまったく見られなくなってしまった…と思っていたら、昨年の十月

 

取材で訪れた鹿児島の蔵元で、昔懐かしい作法のお湯割りでもてなされた。

 

 この蔵元は、錦江湾に夕映えをうける桜島が、遠くに美しく浮かぶ浜辺にある。明治以来

 

の石造りの蔵がのこっていて、その二階が昔風の板敷きの広間になっていた。会社の製

 

品の説明は、囲炉裏を囲んで専務さんからうけた。その間、女性の社員が薩摩焼きの黒

 

ジョカでお湯割りをつくってくれるのである。ジョカは五徳にのせられ、炭火で温められる。

 

薩摩には「亭主が晩酌でのむ焼酎の燗加減がわかるようになったら、女房として一人前」

 

というウーマンリブのメンバーが柳眉(りゅうび)を逆立てそうな言葉があるが、女性社員は

 

ときどき慣れた手つきでジョカを取り上げ、掌で器(うつわ)の温もり具合を確かめていた。

 

やがて焼酎はややぬる目に仕上がり、飲みごろとなった。薩摩の芋焼酎は味まろやかに

 

胃に落ちて、酒精を五臓六腑に散らしていった。

 

 さて、伊助である。まず私の遊びの先生となった。ヤマメやウグイ(イダ)を釣る夕間ズメ

 

の時刻の見切り方。鳥やウサギを罠で捕るときの、鳥道、獣道の見つけ方。山で野宿をす

 

るときの作法。雨の中でも火を作る方法。センブリやドクダミなどの野草で薬をつくる方法。

 

ある日、伊助が囲炉裏にかがみこんでいた。見ると四つ切りにしたマ竹をあぶって、染み

 

でる液体を茶碗で受けている。「なにを、しとるんかい?」とたずねると、「風邪ひいた。咳ド

 

メの薬をつくっちょる」。

 

 私が大人と呼ばれる年齢になると、伊助は飲み

 

友達になった。夏なら焼酎を飲む前に二人で釣

 

竿をもって谷川に降りて、ヤマメを釣った。ヤマメ

 

は塩にまぶして竹串に刺し、囲炉裏火であぶる。

 

塩焼きのヤマメは香ばしく、塩味が焼酎によく合

 

った。秋にはヤマメが鮎(あゆ)に変わり、冬にな

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ると猪やシカ肉の煮込み鍋となった。伊助は農閑期になると、鉄砲をかついで山に入る

 

腕のいい猟師でもあったのだ。

 

 「これは曾祖父(ひいじい)さんから聞いた話じゃけどな」と、あるとき伊助は焼酎を飲み

 

ながら話した。「昔、焼酎の麹(こうじ)を造るときにゃ、ふかし飯に種糀(たねこうじ)を混ぜ

 

て布でくるみ、夫婦が布団で抱いて寝たそうな」「まるで、子づくりじゃないかい」「そういう

 

こっちゃね」。体温で暖めて発酵をうながすのだが、聞いたときには「ホントカネ?」とも思っ

 

た。伊助はホラ話の名人でもあったからである。

 

 例えば、こんな調子だった。「猪撃ちに山にいったら、猪ンやつが襲いかかってきた。

 

そこで鉄砲で射ったが弾がでらん。猪ゃすげえ勢いで、ドッカドッカと向かっちくる。〈こりゃ

 

いかん。大変じゃ〉と思うて鉄砲を逆さにし、銃口からのぞき込んでみた。そしたら、マッ赤

 

になった弾がスーッと出てくるところじゃった。〈こんなら、大丈夫〉と猪に鉄砲を向けた。

 

そこでズドンと弾が出て、猪ンやつをし止めたちゅう訳じゃ」。

 

 しかし、伊助が語った種糀(たねこうじ)作りの話

 

は事実だった。鹿児島の蔵元を訪ねたときに麹室

 

も見せてもらったが、そこでは蔵子(くらこ)が数

 

人、もみ台と呼ばれる台の上に蒸した米をひろげ

 

て念入りに種糀をまぶしていた。〈種かけ〉という

 

作業である。手つきがまるでいたいけな幼児の頭

 

をを撫でるようにやわらかい。作業が終わると米は

 

一升ずつもろぶたに盛って、室屋(むろや)で発酵のため寝かされた。

 

 「寒い日には、この米に布団をかけてやるのです。保温が大切だから…、子供を育てる

 

のと同じですよ」。専務さんの説明で伊助から聞いた話を思い出し、「昔は種麹を混ぜた

 

ふかし飯を抱いて寝て、体温で発酵をうながしたそうですね」と話すと、専務さんはうなず

 

いた。「昔はそんなだったようです。私も古老から聞いた覚えがあります」。

 

 ついでながら…と専務さんは言葉を続け、「この室屋は錦江湾からの南風、北からの

 

山風を取り入れられるように窓が作ってあります。風道(ふうどう)といいます。風で室温を

 

調節するのです。製麹(せいきく)は本当に神経のいる作業ですから、杜氏(とうじ)は夜を

 

徹して窓を開け閉めすること。になるのですよ」

 

 「温度の調節など、コンピューターにまかせればいいじゃないか」という声がどこからか

 

聞こえてきそうだが、味のよい焼酎を生むのには「時間をかけて肌で覚えてきた微妙な

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カンが一番」という言葉には、なかなか重みがあった。窓は引き違いになっていて、隙間を

 

調節できるようになっていた。

 

 伊助は二十年前、春雨に満開の桜が濡れそぼる日、彼岸に旅立っていった。いま私は

 

ふるさとを離れて東京にいる。二月、きさらぎの雨が屋根をうっている。仕事部屋でペンを

 

手にして雨音を聞いていると、囲炉裏端に坐って静かに焼酎を呑んでいた伊助の姿がな

 

つかしく脳裡に浮かんでくる。(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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