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焼酎今昔―@序

大不況の昨今でも、焼酎の人気はさほど衰えを見せな
い。新聞社の依頼で焼酎の名産地の宮崎 、熊本、鹿児島
と取材して歩いたが、どのメーカーさんも、「造る先から
出荷せにゃならん。原料のイモが足らん」と顔を輝かせて
いた。まずはめでたい。
ところで「私がはじめて焼酎をのんだのは十三歳」と告白すれば、厳格な先生や教育熱
心なオカアサン方は、目を剥かれるだろうか? 私は当年とって六十七歳。だから、焼酎
初体験は五十有余年前のことになる。そのころ田舎に行くと「お茶がわりに」と、よく茶碗
で焼酎がでた。つまみには漬物が多かったが、ときおり黒砂糖が出された。褐色のあまい
固まりをなめながら飲むイモ焼酎は、格別の味がする。この独特の風味も、いまでは薩南
諸島産の黒糖焼酎で手軽に楽しめるようになった。
さて、焼酎初体験のことだが、それはその後私が乗り越えてきた数多くの酒難など「モノの
かずではない」と思わされるほど強烈だった。
その日、十三歳の私をつれて父は山の見回りにでかけた。野辺にうららかな春の陽ざしが
降り注いでいた。ひと歩きした後、私と父は山の世話をお願いしているお百姓さんの家に
立ち寄った。陽当たりの良い縁先で、大人二人は焼酎を飲みながら雑談を始め、私は横
でつけだしの黒砂糖を頬張っていた。
「やってみるか?」と突然父の声がして、鼻先に湯呑みが突き出された。醗酵したイモの
匂いが、鼻孔に強く流れこんできた。農家の主人は目に笑い皺をよせて煙管(キセル)で
煙草盆をポンとうった。私はなんとなく、大人二人から挑戦を受けたような気分になった。

茶碗をとり、目をつぶって、グイと一口咽(のど)の奥にほう
りこんだ。途端に眼に火花が散って、炎が口腔(こうくう)を
走り、強烈なイモの匂いが噴煙のように鼻孔につきぬけていっ
た。むせかえり、顔をしかめ、手の甲で口をぬぐう私を見て、
二人の大人は声をあげ、手をうって笑った。しかし私の舌
には、焼酎の味がしっかり残った。年を追うごとに、私は
いっぱしの焼酎呑みに育っていった。
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話はガラリと変わるが、焼酎は長いこと南九州だけのものだった。昭和三十年代には博
多の飲み屋街でさえ市民権がなく、東京で目につき始めたのもここ二十年くらいだろう。そ
れもイモではなく、ソバやコメが圧倒的だった。焼酎が全国版になったのは、これらの匂
いのないソバ焼酎やコメ焼酎のおかげだが、私にはもの足りない。昔懐かしい、鼻が曲が
るほどイモ臭いイモ焼酎が「なにより」で、飲むたびごとに若かりし日を思い起こさせてくれ
る。
では焼酎はいつごろから造られていたのか?
薩摩の北、国見山地の緑が美しい大口盆地に、群山八幡という小さな神社がある。行政
区域でいえば鹿児島県大口市で、杉木立ちの境内に入ると清涼な大気に包まれる。
社(やしろ)の創建は十二世紀末。この神社に昭和十九年(一九五四)、解体修理がほど
こされた。そのとき棟木札に書かれた宮大工の落書きが発見された。
永録二歳(一五五九)八月十一日、作次郎、鶴田助大郎。
其時座主は大キナこすでをちやりて(狡でおじゃりて)一度も焼酎ヲ不被下候(くだされず
そうろう)何共めいわくな事哉(ことかな)。
つまり「この(施主である)神主は大変ずるい、ケチな男で、一度も焼酎をふるまってくれ
なかった。なんという迷惑なことか」というのである。おそらく改築を請け負った宮大工は、
焼酎を振舞ってもらえなかった憤懣(ふんまん)を棟板に書きつけ、柱貫(はしらぬき。柱
を横に置く材)に差しこんだのだろう。「げに、酒の恨みは恐ろしい」ともいえようが、彼らの
怒りのおかげで日本で最も古い「焼酎」の文字が後世に伝えられることとなった。和漢混
淆文で書かれた文体から、この宮大工は相当の教養の持ち主だったように思われる。

焼酎は元の時代(一二七一〜一三六八。日本
では鎌倉時代)から造られていたようで、「焼いた
酒」は蒸留酒を意味した。「酎」の字には三度かさ
ねて醸す酒、つまり濃厚な酒の意味がある。
西洋のブランデーがブランデ・ウェイン、すなわち
「焼いたワイン」を意味するのと同じで面白い。
焼酎は最初は消毒薬として用いられていた。草鞋や裸足の時代が二十世紀の半ばまで
続いていた日本では、怪我をしたときの消毒は焼酎でなされた。これについては明治の
元勲にまつわる面白いエピソードがある。
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幕末の長州は先頭切って攘夷(外国人打ち払い)を叫び、下関海峡を通る外国船に対し
て砲撃を加えた。ときの中央政府だった徳川幕府は諸外国に対して面目まるつぶれとな
り、激怒して長州を討つ決議がなされた。第一次長州征伐である。諸藩に長州攻撃の命
令が発せられた。ここに至って長州の藩論は「恭順か、徹底抗戦か」に分かれた。徹底抗
戦派のリーダーが高杉晋作で、弟分に井上聞多、後の井上馨(かおる)がいた。明治政府
で外務卿になって鹿鳴館を建てるこの男は、恭順派の刺客に襲われた。山口の袖解(そ
でとき)橋の畔でメッタ切りに斬られ、瀕死の重傷で家に担ぎこまれた。その井上を、ちょう
ど居合わせた医師上がりの志士が手当てをした。傷を焼酎で洗い、五十針ほど縫ってか
らふたたび縫い口を焼酎で消毒したという。井上は「あのときの痛さは、死んだほうがマシ
だと思うほどだった」と後々まで語った。
私の思い出に残っている愉快な話では、こんなものがある。生まれ故郷の宮崎県の延
岡という町は、かっては内藤藩七万石の城下町だった。町の中央に城山という小山があ
る。そこに藩のお城があった。城は取り壊されていまはもうないが、小藩にしてはなかなか
の石垣が残っている。「千人殺し」と名前も勇ましく、高さは二十二メートルある。山の頂
には鐘突き堂があって、故人となられた稲田ヨネさんという方が、長年鐘を鳴らしてこられ
た。以下はそのヨネさんから聞いた話である。
春の城山は桜やヤブツバキが美しく咲き誇って、「千人殺し」の石垣がある広場などは
花見客で賑わう。そんなのどかな春のある日「石垣から人が落ちたッ」という急報を受け
て、ヨネさんが駆けつけると、男が石垣の下でノビていた。大急ぎで傷の手当をして介抱を
したら、男は息を吹き返した。「何があったんネ? どうして石垣から落ちたんネ?」と、ヨネ
さんは訊ねた。男はぼそぼそと話し始めた。ことの次第を聞いてヨネさんはそのバカバカ

しさにあきれ果て、ついには笑い出してしまった。
男は花に浮かれて、したたか焼酎を飲んだそう
である。そこにやって来たのが悪ガキ共で、「オジ
サン、そんなに酔っぱらっちょったら、あの石垣は
登れんじゃろうが」と挑発した。男は酔った勢いで
「なにおッ」とヤモリのように石垣に取りつき、ヨタ
ヨタ登っていった。酒の力とは恐ろしいもので、男
は二十二メートルの石垣をほぼ登りきった。
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あと少しで頂上というところで男は首をネジ曲げ、下を向きざま「ガキ共、見たかア。どん
なもんじゃあッ」と叫んだ。すると、すかさず下から悪ガキ共が「登ることはできてン、そこ
でバンザイはでけんじゃろがァ」と怒鳴り返した。男は「なにをオッ」叫ぶや否や、石垣をつ
かんでいた両手を宙にあげ「バンザーイ」。次の瞬間、男はピンポン玉のように転がり落ち
ていったというのである。大事に至らなかったのは、石垣に生えている雑木に、パチンコの
玉のようにあちこち引っかかりながら落ちていったからで、男が地面に叩きつけられたとき
には、悪ガキ共はクモの子を散らすように逃げ散っていた。焼酎飲みの話はいつもユーモ
ラスで、南九州に降りそそぐ陽光のように明るく乾いている。〔了〕